第12城 ~No.19 川越城~ [100名城スタンプ]
2019年4月3日川越城に行きました。ちょうど桜の季節です。
川越城は他の城跡とは違い、天守や石垣、堀や曲輪などの遺構があまり残っていません。しかしながら、江戸時代の城主御殿が残っているのは東日本では唯一だそうです。
川越城は扇谷上杉持朝が1457年(長禄元年)に太田道真・道灌親子に命じて造らせた城です。1537年(天文6年)に小田原北条氏が川越城を攻め落とし、北武蔵の支配を強めていきます。しかし、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原城攻めの際、川越城は前田利家らに攻められ降伏します。徳川家康が江戸に入ると、江戸城に近いこの川越城に酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名が配置されます。
江戸時代に、将軍が鷹狩りの時に川越城をたびたび使ったという記録があることからここは御成御殿だったと考えられています。
まずは城の南側にある富士見櫓跡です。ちょっと小高い丘です。住宅街の中にひっそりとありました。
上ってみました。富士見櫓というくらいなので、昔は富士山が見えたのでしょうが、残念ながら今は何も見えませんでした。
さあ川越城です。本丸御殿です。元々城主御殿は二の丸に建っていたようですが、1846年(弘化3年)火災で焼失するとその2年後本丸に御殿が再建されました。
当時は建物の数16棟、1025坪もある広大な建物だったようです。しかしながら、今現存しているのはほんの一部。明治以降城の役目を終えたことにより、多くの建物は解体されたようです。
家老詰所です。人形がいました。
現存する本丸御殿の中で一番広い36畳の広間です。来客がここで城主がお出ましになるまで待つ部屋だったようです。ここはドラマ『JIN‐仁‐』のロケでも使われていました。大沢たかおさんが座っていた場所に私も座ってニンマリしました。
この川越城は1639年(嘉永16年)、城主松平信綱により拡張整備が行われ、本丸、二の丸、三の丸、6つの曲輪、3つの櫓、そして13の門からなる巨大な城郭となったようです。
川越城の近くに新河岸川が流れています。川越氷川神社の裏手は川沿いに桜並木があり、桜がとても綺麗でした。ここがかつては川越城のお堀だったのだと思います。
川越城は他の城跡とは違い、天守や石垣、堀や曲輪などの遺構があまり残っていません。しかしながら、江戸時代の城主御殿が残っているのは東日本では唯一だそうです。
川越城は扇谷上杉持朝が1457年(長禄元年)に太田道真・道灌親子に命じて造らせた城です。1537年(天文6年)に小田原北条氏が川越城を攻め落とし、北武蔵の支配を強めていきます。しかし、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原城攻めの際、川越城は前田利家らに攻められ降伏します。徳川家康が江戸に入ると、江戸城に近いこの川越城に酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名が配置されます。
江戸時代に、将軍が鷹狩りの時に川越城をたびたび使ったという記録があることからここは御成御殿だったと考えられています。
まずは城の南側にある富士見櫓跡です。ちょっと小高い丘です。住宅街の中にひっそりとありました。
上ってみました。富士見櫓というくらいなので、昔は富士山が見えたのでしょうが、残念ながら今は何も見えませんでした。
さあ川越城です。本丸御殿です。元々城主御殿は二の丸に建っていたようですが、1846年(弘化3年)火災で焼失するとその2年後本丸に御殿が再建されました。
当時は建物の数16棟、1025坪もある広大な建物だったようです。しかしながら、今現存しているのはほんの一部。明治以降城の役目を終えたことにより、多くの建物は解体されたようです。
家老詰所です。人形がいました。
現存する本丸御殿の中で一番広い36畳の広間です。来客がここで城主がお出ましになるまで待つ部屋だったようです。ここはドラマ『JIN‐仁‐』のロケでも使われていました。大沢たかおさんが座っていた場所に私も座ってニンマリしました。
この川越城は1639年(嘉永16年)、城主松平信綱により拡張整備が行われ、本丸、二の丸、三の丸、6つの曲輪、3つの櫓、そして13の門からなる巨大な城郭となったようです。
川越城の近くに新河岸川が流れています。川越氷川神社の裏手は川沿いに桜並木があり、桜がとても綺麗でした。ここがかつては川越城のお堀だったのだと思います。