第14城 ~No.85 福岡城~その1 [100名城スタンプ]
2019年10月12日、念願だった福岡城にやって来ました!
私は2014年大河ドラマ『軍師官兵衛』にドはまりして、それ以来お城や史跡に興味を持ち、戦国武将ゆかりの地を巡る旅が趣味になりました。
福岡といえば、黒田官兵衛・長政ゆかりの地、ワクワクしかしません!
この福岡という地名も、黒田の祖先出身地の備前福岡に因んでいるそうです。
福岡城は1601年(慶長6年)、福岡藩初代藩主黒田長政が父官兵衛(如水)とともに約7年かけて築城しました。博多湾や周りの川を外堀とし47の櫓、10以上の門を配した強固なお城だったようです。
明治時代になると一部を除き、大半の建物が解体や払い下げされましたが、昭和になって復元修復が進められてきました。
さあ、いよいよ入城です。大濠公園側から入って来ました。
まず見えてきたのは名島門です。復元された門らしいです。
屋根の瓦に黒田家の家紋が入っています。
この門をくぐったら、まず左へ。内堀のある方向へ進んでみました。
旧母里太兵衛邸長屋門です。母里太兵衛は黒田二十四騎の一人で、福島正則から日本号を飲み取った逸話が黒田節となっていて、豪傑として知られる武将です。
母里太兵衛の屋敷は元々今の天神にあり、この門もそこに構えられていたものを、福岡県の文化財に指定されたことで、この場所に移築されたのだそうです。
天神にある、元々屋敷があったという場所も見てきました。
旧母里太兵衛邸長屋門を通り過ぎると、黒田如水隠居地(三の丸御鷹屋敷)が見えてきました。如水が晩年の1603年(慶長8年)から没する翌年まで過ごしていたとされる場所です。ここを如水がお散歩していたのでしょうか。そんな想像するだけでテンションあがります!今は牡丹・芍薬園になっていますが、この時期は何もお花は咲いていませんでした。
さらに進むと潮見櫓があります。大正初期に黒田別邸に移築されたものされたが、昭和に再移築されたそうです。元々潮見櫓があったはこの位置ではなく三の丸の北西角で、しかも平成の調査でこの櫓は潮見櫓ではなく別の櫓だということがわかったそうです。なので今この櫓を(伝)潮見櫓と呼んでいます。
その(伝)潮見櫓のすぐそばにある門が下之橋御門です。1805年(文化2年)に建てられましたが、明治に上層部を失い長く一層だったそうですが、平成に不審火で半焼したため復旧に向け調査研究し、2008年(平成20年)に二層櫓門として復原したのだそうです。
堀を挟んで反対側から見た下之橋御門です。この堀に架かる橋が下之橋。ここは日常の通用門として使われたようです。
再び内部に戻って来ました。これから本丸を目指します。
立派な石垣がありました。この上が二の丸にあたります。駐車場とテニスコートに面して石垣がありました。昔テニスをやっていたので、石垣のある所でテニスが出来るなんて羨ましいです。
この石垣の先、右に行くと東御門跡ですが、左に行くと福岡城むかし探訪館があります。ここで100名城スタンプが押せます。中には『軍師官兵衛』で黒田長政を演じた松坂桃李さんのサインや、黒田官兵衛の朱塗合子形兜のレプリカ、福岡城や黒田二十四騎についてのパネルなどの展示があります。ここで「黒田家ゆかりの地を巡る旅をしています」と言ったら、親切に色々教えてくださいました。
さて、福岡城むかし探訪館を出て正面に向かうと、東御門跡です。こちら側の三の丸から二の丸や本丸へ向かうための主要な門です。三の丸には家老たちの屋敷があったようです。
東御門を抜けると二の丸です。二の丸、東二の丸、南二の丸に分かれていたようで、今ラグビー場になっている辺りに二の丸御殿が建っていたらしいです。ここは東二の丸跡です。
烽火番所跡という所もありました。
さらに先へ進むと扇坂です。
今、梅園になっている所が二の丸跡です。
二の丸を抜けて左に進むと表御門跡があります。ここを抜けると本丸です。
ここに建っていた表御門は1918年(大正7年)に黒田家の菩提寺である崇福寺に移築され、ここの山門として今も使用されています。このお寺には黒田官兵衛始め長政や子孫たちの墓があり、もちろん私も訪れました。これがその元表御門です。
本丸の北東の位置にあるのが祈祷櫓跡です。鬼門封じの祈祷のために1860年(万延元年)に竣工しました。1918年(大正7年)に大正寺に移築、1983年(昭和58年)にこの元の位置に戻されたんだそうです。
しかしながら、この下の石垣修繕のため、なんと私が訪れた1か月前に解体されたんだそうです。残念!
本丸の北西の位置には御時櫓跡があります。城内に時を告げる鐘があったようです。この櫓は二層だったようで、近年の調査ではここにあった櫓が潮見櫓だった可能性があるそうです。
つづく。
私は2014年大河ドラマ『軍師官兵衛』にドはまりして、それ以来お城や史跡に興味を持ち、戦国武将ゆかりの地を巡る旅が趣味になりました。
福岡といえば、黒田官兵衛・長政ゆかりの地、ワクワクしかしません!
この福岡という地名も、黒田の祖先出身地の備前福岡に因んでいるそうです。
福岡城は1601年(慶長6年)、福岡藩初代藩主黒田長政が父官兵衛(如水)とともに約7年かけて築城しました。博多湾や周りの川を外堀とし47の櫓、10以上の門を配した強固なお城だったようです。
明治時代になると一部を除き、大半の建物が解体や払い下げされましたが、昭和になって復元修復が進められてきました。
さあ、いよいよ入城です。大濠公園側から入って来ました。
まず見えてきたのは名島門です。復元された門らしいです。
屋根の瓦に黒田家の家紋が入っています。
この門をくぐったら、まず左へ。内堀のある方向へ進んでみました。
旧母里太兵衛邸長屋門です。母里太兵衛は黒田二十四騎の一人で、福島正則から日本号を飲み取った逸話が黒田節となっていて、豪傑として知られる武将です。
母里太兵衛の屋敷は元々今の天神にあり、この門もそこに構えられていたものを、福岡県の文化財に指定されたことで、この場所に移築されたのだそうです。
天神にある、元々屋敷があったという場所も見てきました。
旧母里太兵衛邸長屋門を通り過ぎると、黒田如水隠居地(三の丸御鷹屋敷)が見えてきました。如水が晩年の1603年(慶長8年)から没する翌年まで過ごしていたとされる場所です。ここを如水がお散歩していたのでしょうか。そんな想像するだけでテンションあがります!今は牡丹・芍薬園になっていますが、この時期は何もお花は咲いていませんでした。
さらに進むと潮見櫓があります。大正初期に黒田別邸に移築されたものされたが、昭和に再移築されたそうです。元々潮見櫓があったはこの位置ではなく三の丸の北西角で、しかも平成の調査でこの櫓は潮見櫓ではなく別の櫓だということがわかったそうです。なので今この櫓を(伝)潮見櫓と呼んでいます。
その(伝)潮見櫓のすぐそばにある門が下之橋御門です。1805年(文化2年)に建てられましたが、明治に上層部を失い長く一層だったそうですが、平成に不審火で半焼したため復旧に向け調査研究し、2008年(平成20年)に二層櫓門として復原したのだそうです。
堀を挟んで反対側から見た下之橋御門です。この堀に架かる橋が下之橋。ここは日常の通用門として使われたようです。
再び内部に戻って来ました。これから本丸を目指します。
立派な石垣がありました。この上が二の丸にあたります。駐車場とテニスコートに面して石垣がありました。昔テニスをやっていたので、石垣のある所でテニスが出来るなんて羨ましいです。
この石垣の先、右に行くと東御門跡ですが、左に行くと福岡城むかし探訪館があります。ここで100名城スタンプが押せます。中には『軍師官兵衛』で黒田長政を演じた松坂桃李さんのサインや、黒田官兵衛の朱塗合子形兜のレプリカ、福岡城や黒田二十四騎についてのパネルなどの展示があります。ここで「黒田家ゆかりの地を巡る旅をしています」と言ったら、親切に色々教えてくださいました。
さて、福岡城むかし探訪館を出て正面に向かうと、東御門跡です。こちら側の三の丸から二の丸や本丸へ向かうための主要な門です。三の丸には家老たちの屋敷があったようです。
東御門を抜けると二の丸です。二の丸、東二の丸、南二の丸に分かれていたようで、今ラグビー場になっている辺りに二の丸御殿が建っていたらしいです。ここは東二の丸跡です。
烽火番所跡という所もありました。
さらに先へ進むと扇坂です。
今、梅園になっている所が二の丸跡です。
二の丸を抜けて左に進むと表御門跡があります。ここを抜けると本丸です。
ここに建っていた表御門は1918年(大正7年)に黒田家の菩提寺である崇福寺に移築され、ここの山門として今も使用されています。このお寺には黒田官兵衛始め長政や子孫たちの墓があり、もちろん私も訪れました。これがその元表御門です。
本丸の北東の位置にあるのが祈祷櫓跡です。鬼門封じの祈祷のために1860年(万延元年)に竣工しました。1918年(大正7年)に大正寺に移築、1983年(昭和58年)にこの元の位置に戻されたんだそうです。
しかしながら、この下の石垣修繕のため、なんと私が訪れた1か月前に解体されたんだそうです。残念!
本丸の北西の位置には御時櫓跡があります。城内に時を告げる鐘があったようです。この櫓は二層だったようで、近年の調査ではここにあった櫓が潮見櫓だった可能性があるそうです。
つづく。