番外編 その4~黒崎城~ [その他のお城]
2019年10月14日、小倉城を訪れた後、足を延ばして黒崎城へ行きました。ここはちょっとマニアックなお城かもしれません。
その前に春日神社を訪れました。ここは黒田二十四騎のうちの一人井上周防之房(『軍師官兵衛』で言うと井上九郎右衛門)が建立しました。
鳥居をくぐって階段を上るとだんだん社殿が見えてきました。ワクワクします。
春日神社です。
ここは黒田官兵衛・長政、黒田二十四騎を祀った神社で、黒田宮とも呼ばれています。黒田という文字が見えるだけでテンション上がります。中には黒田二十四騎の版画のレプリカが飾ってありました。奥に飾ってあったのでよく見えませんでしたが。
ここで御朱印を頂きました。その時お話を聞かせていただくと、飾ってある黒田二十四騎の絵は、元々はもっと大きな版画だそうで、絵が彫ってある版木はもう朽ちている部分もあるので、大河ドラマの時に刷ったのが最後かもしれないとおっしゃっていました。
例によって「黒田家ゆかりの地を巡っています」と言ったら色々親切にしてくださいました。ありがとうございました。
さて、いよいよ黒崎城へ向かいます。静かな住宅街を抜けてまあまあの坂道を登りました。もちろん徒歩です。
黒崎城は、1604年(慶長9年)福岡藩初代藩主黒田長政の命により、隣国との国境強化のために築城された六つの城のうちの一つです。城主は井上九郎右衛門です。しかし、1615年(元和元年)一国一城令によりわずか十数年で廃城になってしまいました。
眺めはこんな感じです。右のほうが黒崎駅の方向です。
春日神社でも「何もないですよ」と言われましたが、特に何もなかったです。
でもちゃんと碑は建っていました。私にとってはそれで十分です。
その前に春日神社を訪れました。ここは黒田二十四騎のうちの一人井上周防之房(『軍師官兵衛』で言うと井上九郎右衛門)が建立しました。
鳥居をくぐって階段を上るとだんだん社殿が見えてきました。ワクワクします。
春日神社です。
ここは黒田官兵衛・長政、黒田二十四騎を祀った神社で、黒田宮とも呼ばれています。黒田という文字が見えるだけでテンション上がります。中には黒田二十四騎の版画のレプリカが飾ってありました。奥に飾ってあったのでよく見えませんでしたが。
ここで御朱印を頂きました。その時お話を聞かせていただくと、飾ってある黒田二十四騎の絵は、元々はもっと大きな版画だそうで、絵が彫ってある版木はもう朽ちている部分もあるので、大河ドラマの時に刷ったのが最後かもしれないとおっしゃっていました。
例によって「黒田家ゆかりの地を巡っています」と言ったら色々親切にしてくださいました。ありがとうございました。
さて、いよいよ黒崎城へ向かいます。静かな住宅街を抜けてまあまあの坂道を登りました。もちろん徒歩です。
黒崎城は、1604年(慶長9年)福岡藩初代藩主黒田長政の命により、隣国との国境強化のために築城された六つの城のうちの一つです。城主は井上九郎右衛門です。しかし、1615年(元和元年)一国一城令によりわずか十数年で廃城になってしまいました。
眺めはこんな感じです。右のほうが黒崎駅の方向です。
春日神社でも「何もないですよ」と言われましたが、特に何もなかったです。
でもちゃんと碑は建っていました。私にとってはそれで十分です。
【続】第3城 ~No. 181 小倉城~ [続100名城スタンプ]
2019年10月14日、小倉城へやって来ました。
小倉城は、1569年(永禄12年)に安芸の毛利氏が今の本丸辺りに城を築いたのが始まりだそうです。1602年(慶長7年)、細川忠興により約7年かけて大規模な築城が行われました。
『軍師官兵衛』好きな私は、小倉城と言えば吉川元春がこの地で亡くなったということで記憶しています。
小倉駅から少し歩いて井筒屋さんの所に来ました。ここからだとちょうど正面に小倉城が見えます。
紫川に架かる木の橋で常盤橋です。城下町らしい雰囲気です。
橋を渡って城内に入って来ました。内堀です。あまり詳しい情報を持っていないのですが、この辺りの石垣は当時のものなのでしょうか。右側がかつての二の丸で、今はリバーウォーク北九州です。
早速天守が見えてきました。石垣が高い!立派!
左側に大手先門跡があります。昔はまずここを通って大手門に向かったようです。
進んでいくと右側に大手門跡です。本丸に入ります。
振り向いたところ。
さらに進むと槻(けやき)門跡です。藩主や家老など位が上の人たちのための門だったようです。
天守にやって来ました。近すぎて全体が入らなったです。
この天守は模擬天守で1959年(昭和34年)に造られたもので、1837年(天保8年)の火災で焼失した後は再建されなったそうです。
細川忠興が築いた天守は五重、内部は六重で、最上重以外は破風がない唐造りと呼ばれる珍しい天守で、ここが唯一だったそうです。
天守からの眺めです。中は博物館になっていて、小倉城の歴史をスクリーンで見られたり、千利休の茶室を再現したものがあったり、唐造りの天守の模型があったりと色々楽しめます。唐造りの天守はシンプルで結構格好いいなと思いました。どうせならこの天守を復元すれば良かったのになって思いました。でもちょっと地味なのかな。破風があったほうが格好いいからですかね。
外に出て来ました。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘のシーンの像がありました。
本丸の西側の堀です。
本丸の北側は北の丸です。今はここは八坂神社になっています。多聞口門跡です。
八坂神社は正面から入りたかったので、通り抜けずに本丸に戻って来ました。本丸の南側にある鉄門跡です。槻門と並んでいますが、こちら側は中老以下の武士たちが通った門だそうです。
また本丸の東側に戻って来ました。八坂神社の鳥居があります。
天守を北側のお堀越しに見ています。
夜は天守をライトアップしています。
大手先門のほうから見ると、ライトアップされた天守がビルに反射して、天守が二つに見えました。
小倉城は、1569年(永禄12年)に安芸の毛利氏が今の本丸辺りに城を築いたのが始まりだそうです。1602年(慶長7年)、細川忠興により約7年かけて大規模な築城が行われました。
『軍師官兵衛』好きな私は、小倉城と言えば吉川元春がこの地で亡くなったということで記憶しています。
小倉駅から少し歩いて井筒屋さんの所に来ました。ここからだとちょうど正面に小倉城が見えます。
紫川に架かる木の橋で常盤橋です。城下町らしい雰囲気です。
橋を渡って城内に入って来ました。内堀です。あまり詳しい情報を持っていないのですが、この辺りの石垣は当時のものなのでしょうか。右側がかつての二の丸で、今はリバーウォーク北九州です。
早速天守が見えてきました。石垣が高い!立派!
左側に大手先門跡があります。昔はまずここを通って大手門に向かったようです。
進んでいくと右側に大手門跡です。本丸に入ります。
振り向いたところ。
さらに進むと槻(けやき)門跡です。藩主や家老など位が上の人たちのための門だったようです。
天守にやって来ました。近すぎて全体が入らなったです。
この天守は模擬天守で1959年(昭和34年)に造られたもので、1837年(天保8年)の火災で焼失した後は再建されなったそうです。
細川忠興が築いた天守は五重、内部は六重で、最上重以外は破風がない唐造りと呼ばれる珍しい天守で、ここが唯一だったそうです。
天守からの眺めです。中は博物館になっていて、小倉城の歴史をスクリーンで見られたり、千利休の茶室を再現したものがあったり、唐造りの天守の模型があったりと色々楽しめます。唐造りの天守はシンプルで結構格好いいなと思いました。どうせならこの天守を復元すれば良かったのになって思いました。でもちょっと地味なのかな。破風があったほうが格好いいからですかね。
外に出て来ました。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘のシーンの像がありました。
本丸の西側の堀です。
本丸の北側は北の丸です。今はここは八坂神社になっています。多聞口門跡です。
八坂神社は正面から入りたかったので、通り抜けずに本丸に戻って来ました。本丸の南側にある鉄門跡です。槻門と並んでいますが、こちら側は中老以下の武士たちが通った門だそうです。
また本丸の東側に戻って来ました。八坂神社の鳥居があります。
天守を北側のお堀越しに見ています。
夜は天守をライトアップしています。
大手先門のほうから見ると、ライトアップされた天守がビルに反射して、天守が二つに見えました。
【続】第2城 ~No. 191 中津城~ [続100名城スタンプ]
2019年10月13日、大分県の中津城にやって来ました。
福岡城に続く、黒田官兵衛ゆかりのお城で、今回の旅の中でもとても楽しみにしていたお城です。『軍師官兵衛』好きとしてはテンション上がるスポットばかりです。
駅を出てすぐ、とても情緒のある場所がありました。川に架かる朱色の欄干と柳の木。城下町という雰囲気です。
町にはこんな物もありました。くろかんくんのマンホール。そして黒田官兵衛を紹介するパネル。
中津城は、1588年(天正16年)に黒田官兵衛が築城を始め、関ケ原の戦い後は細川忠興が城主となり完成しました。中津城は日本三大水城の一つと数えられています。あと二つは高松城と今治城だそうです。これもいつか行かねば。
まず見えてきたのは鳥居です。中津神社って書いてあります。中津城がある一体全体が公園となっていて、ここがその入り口です。
この鳥居の手前には当時の石垣を復元したものがあります。穴太衆の技法で自然の石を積んだものです。石垣は両端より中央が少し傾斜していて、上から見ると緩やかな弧を描いています。これを輪取りというそうです。力を内側に集中させ崩れにくくしているのだそうです。この石垣の向かい側には中津市歴史博物館がありますが、オープンが2019年11月だったので、私は訪れることが出来ませんでした。次回中津へ行ったらぜひ行きたいです。
天守へ行く前にまずお参りです。中津大神宮です。豊前の国のお伊勢様として地元の人々に親しまれているそうです。
城井神社です。元々この地は鎌倉時代から宇都宮家が治めていました。黒田官兵衛がこの地を豊臣秀吉から与えられると、宇都宮鎮房は伊予へ国替えを命じられます。しかし、先祖代々ここで暮らしてきた宇都宮氏はその命に背き、黒田と戦うことになります。結局宇都宮鎮房は黒田長政により謀殺されますが、その後長政は城内に社を建て、鎮房を城井大明神として祀りました。
扇城神社です。城井神社のすぐ横にあります。謀殺された宇都宮鎮房のために戦い討ち死にした重臣たちを祀っています。
西南戦争の時の中津隊隊長、増田宋太郎の碑もありました。
これが中津神社です。明治に市内にある神社五社の御分霊を合わせて祀り中津神社としたのだそうです。最初に見た鳥居はこの神社のものですね。
中津神社の横から中津川へ出られます。黒田の石垣への案内板がありました。
ここの石垣は城の北側を流れる中津川に面していて、この写真でいうと中央の石垣が一段引っ込んでいますが、その部分が鉄門跡です。当時は開いていて川が直接本丸に繋がっていたようです。
さあ天守にやって来ました。実際は天守は建てられなかったようですが、1964年(昭和39年)旧藩主奥平昌信氏が中心となり、模擬五重天守と二重櫓を建てたそうです。天守の中は奥平家歴史資料館になっています。模擬とはいえ天守が建っているとやはりお城はカッコいいですよね。
天守からの眺めです。
宇都宮鎮房の居城があった城井谷方面です。中央のポコっとした山の右側の方向だそうです。
内堀を見下ろしています。内堀は当時のままだそうです。ここは水門から海水が入ってきているので、潮の満ち引きがあるそうです。
内堀の外側に回って来ました。天守と櫓です。中津城、カッコいいいです!
本丸の北東側にある石垣です。ここは黒田時代と細川時代の石垣が接した継ぎ目があります。右側が黒田時代、左側が細川時代だそうです。黒田官兵衛はこの石垣を築く際、川の上流にあった古代の城唐原山城という所から持ち出された石を再利用したんだそうです。7世紀の頃の石ですが綺麗に加工されていたんですね。こういう遺構を見るとテンション上がります。
そしてその石垣の前には黒田官兵衛と妻の光の像が並んでいました。お家存続のため側室を持つのが普通の時代に、官兵衛は正室しか持たなかったそうです。後世にこうして二人並んで像になるなんて本人たちも驚いているでしょうね。
城の東側には寺町と呼ばれる城下の防衛のために造られた地域があります。ここには黒田官兵衛ゆかりのお寺がいくつかあります。
まずは西蓮寺。官兵衛の末弟が1588年(天正16年)に開きました。中をちょっと覗かせてもらいましたが、特に何もなく誰もいなかったので、そっと出て来ました。
次は円応寺です。1587年(天正15年)に黒田官兵衛の開基によって建立された浄土宗のお寺で、開山は見道和尚。1600年(慶長5年)に見道和尚は黒田に従って福岡に移り円応寺を開きました。
境内には河童のお墓と呼ばれる五輪塔があり、これは黒田二十四騎のうちの一人野村太郎兵衛のお墓とも言われているそうです。
ここはぜひとも来たかった合元寺です。黒田官兵衛とともに姫路から移ってきた空誉上人が開いたお寺です。宇都宮鎮房が中津城で謀殺された時、彼の家臣たちがこの寺を拠点として黒田勢と奮戦しましたがことごとく斬られ、ここの白壁はその血で真っ赤に染まったそうです。その後、壁を何度白く塗りなおしても血痕が消えず、ついには赤く塗ったということです。
夜は中津城がライトアップされていました。ちょうどイルミネーションのイベントをやっていました。
こういうライトアップも天守があるからこそですね。実際に訪れて大好きなお城になりました。
福岡城に続く、黒田官兵衛ゆかりのお城で、今回の旅の中でもとても楽しみにしていたお城です。『軍師官兵衛』好きとしてはテンション上がるスポットばかりです。
駅を出てすぐ、とても情緒のある場所がありました。川に架かる朱色の欄干と柳の木。城下町という雰囲気です。
町にはこんな物もありました。くろかんくんのマンホール。そして黒田官兵衛を紹介するパネル。
中津城は、1588年(天正16年)に黒田官兵衛が築城を始め、関ケ原の戦い後は細川忠興が城主となり完成しました。中津城は日本三大水城の一つと数えられています。あと二つは高松城と今治城だそうです。これもいつか行かねば。
まず見えてきたのは鳥居です。中津神社って書いてあります。中津城がある一体全体が公園となっていて、ここがその入り口です。
この鳥居の手前には当時の石垣を復元したものがあります。穴太衆の技法で自然の石を積んだものです。石垣は両端より中央が少し傾斜していて、上から見ると緩やかな弧を描いています。これを輪取りというそうです。力を内側に集中させ崩れにくくしているのだそうです。この石垣の向かい側には中津市歴史博物館がありますが、オープンが2019年11月だったので、私は訪れることが出来ませんでした。次回中津へ行ったらぜひ行きたいです。
天守へ行く前にまずお参りです。中津大神宮です。豊前の国のお伊勢様として地元の人々に親しまれているそうです。
城井神社です。元々この地は鎌倉時代から宇都宮家が治めていました。黒田官兵衛がこの地を豊臣秀吉から与えられると、宇都宮鎮房は伊予へ国替えを命じられます。しかし、先祖代々ここで暮らしてきた宇都宮氏はその命に背き、黒田と戦うことになります。結局宇都宮鎮房は黒田長政により謀殺されますが、その後長政は城内に社を建て、鎮房を城井大明神として祀りました。
扇城神社です。城井神社のすぐ横にあります。謀殺された宇都宮鎮房のために戦い討ち死にした重臣たちを祀っています。
西南戦争の時の中津隊隊長、増田宋太郎の碑もありました。
これが中津神社です。明治に市内にある神社五社の御分霊を合わせて祀り中津神社としたのだそうです。最初に見た鳥居はこの神社のものですね。
中津神社の横から中津川へ出られます。黒田の石垣への案内板がありました。
ここの石垣は城の北側を流れる中津川に面していて、この写真でいうと中央の石垣が一段引っ込んでいますが、その部分が鉄門跡です。当時は開いていて川が直接本丸に繋がっていたようです。
さあ天守にやって来ました。実際は天守は建てられなかったようですが、1964年(昭和39年)旧藩主奥平昌信氏が中心となり、模擬五重天守と二重櫓を建てたそうです。天守の中は奥平家歴史資料館になっています。模擬とはいえ天守が建っているとやはりお城はカッコいいですよね。
天守からの眺めです。
宇都宮鎮房の居城があった城井谷方面です。中央のポコっとした山の右側の方向だそうです。
内堀を見下ろしています。内堀は当時のままだそうです。ここは水門から海水が入ってきているので、潮の満ち引きがあるそうです。
内堀の外側に回って来ました。天守と櫓です。中津城、カッコいいいです!
本丸の北東側にある石垣です。ここは黒田時代と細川時代の石垣が接した継ぎ目があります。右側が黒田時代、左側が細川時代だそうです。黒田官兵衛はこの石垣を築く際、川の上流にあった古代の城唐原山城という所から持ち出された石を再利用したんだそうです。7世紀の頃の石ですが綺麗に加工されていたんですね。こういう遺構を見るとテンション上がります。
そしてその石垣の前には黒田官兵衛と妻の光の像が並んでいました。お家存続のため側室を持つのが普通の時代に、官兵衛は正室しか持たなかったそうです。後世にこうして二人並んで像になるなんて本人たちも驚いているでしょうね。
城の東側には寺町と呼ばれる城下の防衛のために造られた地域があります。ここには黒田官兵衛ゆかりのお寺がいくつかあります。
まずは西蓮寺。官兵衛の末弟が1588年(天正16年)に開きました。中をちょっと覗かせてもらいましたが、特に何もなく誰もいなかったので、そっと出て来ました。
次は円応寺です。1587年(天正15年)に黒田官兵衛の開基によって建立された浄土宗のお寺で、開山は見道和尚。1600年(慶長5年)に見道和尚は黒田に従って福岡に移り円応寺を開きました。
境内には河童のお墓と呼ばれる五輪塔があり、これは黒田二十四騎のうちの一人野村太郎兵衛のお墓とも言われているそうです。
ここはぜひとも来たかった合元寺です。黒田官兵衛とともに姫路から移ってきた空誉上人が開いたお寺です。宇都宮鎮房が中津城で謀殺された時、彼の家臣たちがこの寺を拠点として黒田勢と奮戦しましたがことごとく斬られ、ここの白壁はその血で真っ赤に染まったそうです。その後、壁を何度白く塗りなおしても血痕が消えず、ついには赤く塗ったということです。
夜は中津城がライトアップされていました。ちょうどイルミネーションのイベントをやっていました。
こういうライトアップも天守があるからこそですね。実際に訪れて大好きなお城になりました。
第14城 ~No.85 福岡城~その2 [100名城スタンプ]
本丸跡です。ここには藩主の本丸御殿が建っていました。どんなお屋敷だったんでしょうね。
さあいよいよ天守台へ向かいます。その手前にあるのが鉄御門跡です。この門は敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。石垣も高く、この上に櫓や塀を張り巡らせて、上から攻撃できるようにしていたようです。
ここを抜けると埋門跡です。この門もやはり狭くなっています。天守はこの上です。
埋門の上を通ると天守台跡に出ました。礎石や石垣があります。今までは天守閣は築かれなかったと言われてきましたが、最近の調査でその存在をうかがわせる文書が見つかったりしているそうなので、一度は造られたがその後取り壊されたのではないか、など色々な説があるそうです。もし造られていたとしたら、礎石や石垣の規模から五層の大天守と中・小天守が連なった大規模なものだったのではないかと言われているそうです。本当のところはどうだったんでしょうね。この謎もまた歴史のロマンです。
天守台からの眺めです。歴代の藩主もここからこうやって眺めたのでしょうか。
天守台から見下ろしています。鉄御門跡の真上です。
埋門跡を抜けてみました。石垣も立派です。この先には武具櫓があったようですが、行けないようになっていました。
本丸の西側に来ました。ここには裏御門跡があります。ここを抜けるとまた本丸に出ます。
裏御門は通らないで本丸の南側にある多門櫓へ行ってみます。
この櫓は72mもある平櫓と両端に二層の隅櫓からなっており、江戸時代から残っているものです。1607年(慶長12年)に建てられ、1853年(嘉永6年)に改修されました。平櫓の内部は突き抜けではなく16の小部屋に分かれている珍しい造りで、石落があることから防御のための櫓と考えられています。
これが北側にある櫓。
南側にある櫓。カッコいいです。
本丸の外側に出て来ました。
またお堀のほうへ来ました。先ほどの下之橋から東のほうへ行くと上之橋があります。ここが上之橋御門跡です。下之橋御門は日常に使った門、こちらは江戸に近いほうなので上手にあたり、藩主が参勤交代の時に通る公式の門でした。
上之橋からもう少し東へ進むと、地下に福岡城の堀石垣が保存されている場所があります。明治に埋められたものが、昭和の道路工事の際に発見されたました。内堀の北側の石垣で当時の姿が残っていると考えられ、ここに保存されているのだそうです。
さあいよいよ天守台へ向かいます。その手前にあるのが鉄御門跡です。この門は敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。石垣も高く、この上に櫓や塀を張り巡らせて、上から攻撃できるようにしていたようです。
ここを抜けると埋門跡です。この門もやはり狭くなっています。天守はこの上です。
埋門の上を通ると天守台跡に出ました。礎石や石垣があります。今までは天守閣は築かれなかったと言われてきましたが、最近の調査でその存在をうかがわせる文書が見つかったりしているそうなので、一度は造られたがその後取り壊されたのではないか、など色々な説があるそうです。もし造られていたとしたら、礎石や石垣の規模から五層の大天守と中・小天守が連なった大規模なものだったのではないかと言われているそうです。本当のところはどうだったんでしょうね。この謎もまた歴史のロマンです。
天守台からの眺めです。歴代の藩主もここからこうやって眺めたのでしょうか。
天守台から見下ろしています。鉄御門跡の真上です。
埋門跡を抜けてみました。石垣も立派です。この先には武具櫓があったようですが、行けないようになっていました。
本丸の西側に来ました。ここには裏御門跡があります。ここを抜けるとまた本丸に出ます。
裏御門は通らないで本丸の南側にある多門櫓へ行ってみます。
この櫓は72mもある平櫓と両端に二層の隅櫓からなっており、江戸時代から残っているものです。1607年(慶長12年)に建てられ、1853年(嘉永6年)に改修されました。平櫓の内部は突き抜けではなく16の小部屋に分かれている珍しい造りで、石落があることから防御のための櫓と考えられています。
これが北側にある櫓。
南側にある櫓。カッコいいです。
本丸の外側に出て来ました。
またお堀のほうへ来ました。先ほどの下之橋から東のほうへ行くと上之橋があります。ここが上之橋御門跡です。下之橋御門は日常に使った門、こちらは江戸に近いほうなので上手にあたり、藩主が参勤交代の時に通る公式の門でした。
上之橋からもう少し東へ進むと、地下に福岡城の堀石垣が保存されている場所があります。明治に埋められたものが、昭和の道路工事の際に発見されたました。内堀の北側の石垣で当時の姿が残っていると考えられ、ここに保存されているのだそうです。