第14城 ~No.85 福岡城~その2 [100名城スタンプ]
本丸跡です。ここには藩主の本丸御殿が建っていました。どんなお屋敷だったんでしょうね。
さあいよいよ天守台へ向かいます。その手前にあるのが鉄御門跡です。この門は敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。石垣も高く、この上に櫓や塀を張り巡らせて、上から攻撃できるようにしていたようです。
ここを抜けると埋門跡です。この門もやはり狭くなっています。天守はこの上です。
埋門の上を通ると天守台跡に出ました。礎石や石垣があります。今までは天守閣は築かれなかったと言われてきましたが、最近の調査でその存在をうかがわせる文書が見つかったりしているそうなので、一度は造られたがその後取り壊されたのではないか、など色々な説があるそうです。もし造られていたとしたら、礎石や石垣の規模から五層の大天守と中・小天守が連なった大規模なものだったのではないかと言われているそうです。本当のところはどうだったんでしょうね。この謎もまた歴史のロマンです。
天守台からの眺めです。歴代の藩主もここからこうやって眺めたのでしょうか。
天守台から見下ろしています。鉄御門跡の真上です。
埋門跡を抜けてみました。石垣も立派です。この先には武具櫓があったようですが、行けないようになっていました。
本丸の西側に来ました。ここには裏御門跡があります。ここを抜けるとまた本丸に出ます。
裏御門は通らないで本丸の南側にある多門櫓へ行ってみます。
この櫓は72mもある平櫓と両端に二層の隅櫓からなっており、江戸時代から残っているものです。1607年(慶長12年)に建てられ、1853年(嘉永6年)に改修されました。平櫓の内部は突き抜けではなく16の小部屋に分かれている珍しい造りで、石落があることから防御のための櫓と考えられています。
これが北側にある櫓。
南側にある櫓。カッコいいです。
本丸の外側に出て来ました。
またお堀のほうへ来ました。先ほどの下之橋から東のほうへ行くと上之橋があります。ここが上之橋御門跡です。下之橋御門は日常に使った門、こちらは江戸に近いほうなので上手にあたり、藩主が参勤交代の時に通る公式の門でした。
上之橋からもう少し東へ進むと、地下に福岡城の堀石垣が保存されている場所があります。明治に埋められたものが、昭和の道路工事の際に発見されたました。内堀の北側の石垣で当時の姿が残っていると考えられ、ここに保存されているのだそうです。
さあいよいよ天守台へ向かいます。その手前にあるのが鉄御門跡です。この門は敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。石垣も高く、この上に櫓や塀を張り巡らせて、上から攻撃できるようにしていたようです。
ここを抜けると埋門跡です。この門もやはり狭くなっています。天守はこの上です。
埋門の上を通ると天守台跡に出ました。礎石や石垣があります。今までは天守閣は築かれなかったと言われてきましたが、最近の調査でその存在をうかがわせる文書が見つかったりしているそうなので、一度は造られたがその後取り壊されたのではないか、など色々な説があるそうです。もし造られていたとしたら、礎石や石垣の規模から五層の大天守と中・小天守が連なった大規模なものだったのではないかと言われているそうです。本当のところはどうだったんでしょうね。この謎もまた歴史のロマンです。
天守台からの眺めです。歴代の藩主もここからこうやって眺めたのでしょうか。
天守台から見下ろしています。鉄御門跡の真上です。
埋門跡を抜けてみました。石垣も立派です。この先には武具櫓があったようですが、行けないようになっていました。
本丸の西側に来ました。ここには裏御門跡があります。ここを抜けるとまた本丸に出ます。
裏御門は通らないで本丸の南側にある多門櫓へ行ってみます。
この櫓は72mもある平櫓と両端に二層の隅櫓からなっており、江戸時代から残っているものです。1607年(慶長12年)に建てられ、1853年(嘉永6年)に改修されました。平櫓の内部は突き抜けではなく16の小部屋に分かれている珍しい造りで、石落があることから防御のための櫓と考えられています。
これが北側にある櫓。
南側にある櫓。カッコいいです。
本丸の外側に出て来ました。
またお堀のほうへ来ました。先ほどの下之橋から東のほうへ行くと上之橋があります。ここが上之橋御門跡です。下之橋御門は日常に使った門、こちらは江戸に近いほうなので上手にあたり、藩主が参勤交代の時に通る公式の門でした。
上之橋からもう少し東へ進むと、地下に福岡城の堀石垣が保存されている場所があります。明治に埋められたものが、昭和の道路工事の際に発見されたました。内堀の北側の石垣で当時の姿が残っていると考えられ、ここに保存されているのだそうです。
第14城 ~No.85 福岡城~その1 [100名城スタンプ]
2019年10月12日、念願だった福岡城にやって来ました!
私は2014年大河ドラマ『軍師官兵衛』にドはまりして、それ以来お城や史跡に興味を持ち、戦国武将ゆかりの地を巡る旅が趣味になりました。
福岡といえば、黒田官兵衛・長政ゆかりの地、ワクワクしかしません!
この福岡という地名も、黒田の祖先出身地の備前福岡に因んでいるそうです。
福岡城は1601年(慶長6年)、福岡藩初代藩主黒田長政が父官兵衛(如水)とともに約7年かけて築城しました。博多湾や周りの川を外堀とし47の櫓、10以上の門を配した強固なお城だったようです。
明治時代になると一部を除き、大半の建物が解体や払い下げされましたが、昭和になって復元修復が進められてきました。
さあ、いよいよ入城です。大濠公園側から入って来ました。
まず見えてきたのは名島門です。復元された門らしいです。
屋根の瓦に黒田家の家紋が入っています。
この門をくぐったら、まず左へ。内堀のある方向へ進んでみました。
旧母里太兵衛邸長屋門です。母里太兵衛は黒田二十四騎の一人で、福島正則から日本号を飲み取った逸話が黒田節となっていて、豪傑として知られる武将です。
母里太兵衛の屋敷は元々今の天神にあり、この門もそこに構えられていたものを、福岡県の文化財に指定されたことで、この場所に移築されたのだそうです。
天神にある、元々屋敷があったという場所も見てきました。
旧母里太兵衛邸長屋門を通り過ぎると、黒田如水隠居地(三の丸御鷹屋敷)が見えてきました。如水が晩年の1603年(慶長8年)から没する翌年まで過ごしていたとされる場所です。ここを如水がお散歩していたのでしょうか。そんな想像するだけでテンションあがります!今は牡丹・芍薬園になっていますが、この時期は何もお花は咲いていませんでした。
さらに進むと潮見櫓があります。大正初期に黒田別邸に移築されたものされたが、昭和に再移築されたそうです。元々潮見櫓があったはこの位置ではなく三の丸の北西角で、しかも平成の調査でこの櫓は潮見櫓ではなく別の櫓だということがわかったそうです。なので今この櫓を(伝)潮見櫓と呼んでいます。
その(伝)潮見櫓のすぐそばにある門が下之橋御門です。1805年(文化2年)に建てられましたが、明治に上層部を失い長く一層だったそうですが、平成に不審火で半焼したため復旧に向け調査研究し、2008年(平成20年)に二層櫓門として復原したのだそうです。
堀を挟んで反対側から見た下之橋御門です。この堀に架かる橋が下之橋。ここは日常の通用門として使われたようです。
再び内部に戻って来ました。これから本丸を目指します。
立派な石垣がありました。この上が二の丸にあたります。駐車場とテニスコートに面して石垣がありました。昔テニスをやっていたので、石垣のある所でテニスが出来るなんて羨ましいです。
この石垣の先、右に行くと東御門跡ですが、左に行くと福岡城むかし探訪館があります。ここで100名城スタンプが押せます。中には『軍師官兵衛』で黒田長政を演じた松坂桃李さんのサインや、黒田官兵衛の朱塗合子形兜のレプリカ、福岡城や黒田二十四騎についてのパネルなどの展示があります。ここで「黒田家ゆかりの地を巡る旅をしています」と言ったら、親切に色々教えてくださいました。
さて、福岡城むかし探訪館を出て正面に向かうと、東御門跡です。こちら側の三の丸から二の丸や本丸へ向かうための主要な門です。三の丸には家老たちの屋敷があったようです。
東御門を抜けると二の丸です。二の丸、東二の丸、南二の丸に分かれていたようで、今ラグビー場になっている辺りに二の丸御殿が建っていたらしいです。ここは東二の丸跡です。
烽火番所跡という所もありました。
さらに先へ進むと扇坂です。
今、梅園になっている所が二の丸跡です。
二の丸を抜けて左に進むと表御門跡があります。ここを抜けると本丸です。
ここに建っていた表御門は1918年(大正7年)に黒田家の菩提寺である崇福寺に移築され、ここの山門として今も使用されています。このお寺には黒田官兵衛始め長政や子孫たちの墓があり、もちろん私も訪れました。これがその元表御門です。
本丸の北東の位置にあるのが祈祷櫓跡です。鬼門封じの祈祷のために1860年(万延元年)に竣工しました。1918年(大正7年)に大正寺に移築、1983年(昭和58年)にこの元の位置に戻されたんだそうです。
しかしながら、この下の石垣修繕のため、なんと私が訪れた1か月前に解体されたんだそうです。残念!
本丸の北西の位置には御時櫓跡があります。城内に時を告げる鐘があったようです。この櫓は二層だったようで、近年の調査ではここにあった櫓が潮見櫓だった可能性があるそうです。
つづく。
私は2014年大河ドラマ『軍師官兵衛』にドはまりして、それ以来お城や史跡に興味を持ち、戦国武将ゆかりの地を巡る旅が趣味になりました。
福岡といえば、黒田官兵衛・長政ゆかりの地、ワクワクしかしません!
この福岡という地名も、黒田の祖先出身地の備前福岡に因んでいるそうです。
福岡城は1601年(慶長6年)、福岡藩初代藩主黒田長政が父官兵衛(如水)とともに約7年かけて築城しました。博多湾や周りの川を外堀とし47の櫓、10以上の門を配した強固なお城だったようです。
明治時代になると一部を除き、大半の建物が解体や払い下げされましたが、昭和になって復元修復が進められてきました。
さあ、いよいよ入城です。大濠公園側から入って来ました。
まず見えてきたのは名島門です。復元された門らしいです。
屋根の瓦に黒田家の家紋が入っています。
この門をくぐったら、まず左へ。内堀のある方向へ進んでみました。
旧母里太兵衛邸長屋門です。母里太兵衛は黒田二十四騎の一人で、福島正則から日本号を飲み取った逸話が黒田節となっていて、豪傑として知られる武将です。
母里太兵衛の屋敷は元々今の天神にあり、この門もそこに構えられていたものを、福岡県の文化財に指定されたことで、この場所に移築されたのだそうです。
天神にある、元々屋敷があったという場所も見てきました。
旧母里太兵衛邸長屋門を通り過ぎると、黒田如水隠居地(三の丸御鷹屋敷)が見えてきました。如水が晩年の1603年(慶長8年)から没する翌年まで過ごしていたとされる場所です。ここを如水がお散歩していたのでしょうか。そんな想像するだけでテンションあがります!今は牡丹・芍薬園になっていますが、この時期は何もお花は咲いていませんでした。
さらに進むと潮見櫓があります。大正初期に黒田別邸に移築されたものされたが、昭和に再移築されたそうです。元々潮見櫓があったはこの位置ではなく三の丸の北西角で、しかも平成の調査でこの櫓は潮見櫓ではなく別の櫓だということがわかったそうです。なので今この櫓を(伝)潮見櫓と呼んでいます。
その(伝)潮見櫓のすぐそばにある門が下之橋御門です。1805年(文化2年)に建てられましたが、明治に上層部を失い長く一層だったそうですが、平成に不審火で半焼したため復旧に向け調査研究し、2008年(平成20年)に二層櫓門として復原したのだそうです。
堀を挟んで反対側から見た下之橋御門です。この堀に架かる橋が下之橋。ここは日常の通用門として使われたようです。
再び内部に戻って来ました。これから本丸を目指します。
立派な石垣がありました。この上が二の丸にあたります。駐車場とテニスコートに面して石垣がありました。昔テニスをやっていたので、石垣のある所でテニスが出来るなんて羨ましいです。
この石垣の先、右に行くと東御門跡ですが、左に行くと福岡城むかし探訪館があります。ここで100名城スタンプが押せます。中には『軍師官兵衛』で黒田長政を演じた松坂桃李さんのサインや、黒田官兵衛の朱塗合子形兜のレプリカ、福岡城や黒田二十四騎についてのパネルなどの展示があります。ここで「黒田家ゆかりの地を巡る旅をしています」と言ったら、親切に色々教えてくださいました。
さて、福岡城むかし探訪館を出て正面に向かうと、東御門跡です。こちら側の三の丸から二の丸や本丸へ向かうための主要な門です。三の丸には家老たちの屋敷があったようです。
東御門を抜けると二の丸です。二の丸、東二の丸、南二の丸に分かれていたようで、今ラグビー場になっている辺りに二の丸御殿が建っていたらしいです。ここは東二の丸跡です。
烽火番所跡という所もありました。
さらに先へ進むと扇坂です。
今、梅園になっている所が二の丸跡です。
二の丸を抜けて左に進むと表御門跡があります。ここを抜けると本丸です。
ここに建っていた表御門は1918年(大正7年)に黒田家の菩提寺である崇福寺に移築され、ここの山門として今も使用されています。このお寺には黒田官兵衛始め長政や子孫たちの墓があり、もちろん私も訪れました。これがその元表御門です。
本丸の北東の位置にあるのが祈祷櫓跡です。鬼門封じの祈祷のために1860年(万延元年)に竣工しました。1918年(大正7年)に大正寺に移築、1983年(昭和58年)にこの元の位置に戻されたんだそうです。
しかしながら、この下の石垣修繕のため、なんと私が訪れた1か月前に解体されたんだそうです。残念!
本丸の北西の位置には御時櫓跡があります。城内に時を告げる鐘があったようです。この櫓は二層だったようで、近年の調査ではここにあった櫓が潮見櫓だった可能性があるそうです。
つづく。
第13城 ~No86 大野城~ [100名城スタンプ]
2019年10月11日、とうとう九州上陸です。
福岡県の大野城にやって来ました。
と言っても、これも観音寺城と同じで現地まで行ってません!
太宰府観光メインだったので、ちょっと遠くてたどり着けません。
と言う事で、100名城スタンプを押すことができる場所はいくつもあったのですが、私は太宰府展示館で押させてもらいました。
なので、大宰府政庁跡の写真を。たぶん後ろに写っている山が大野城がある山だと思われます。
大野城は663年(天智天皇2年)の白村江の戦いで敗れた大和朝廷が、唐・新羅の攻撃に備え、大宰府を防衛するために造られた山城です。百済人の指導の下で造られた朝鮮式のお城だったようです。大野城跡には土塁、石塁、城門跡や建物の礎石が残っているそうです。
福岡県の大野城にやって来ました。
と言っても、これも観音寺城と同じで現地まで行ってません!
太宰府観光メインだったので、ちょっと遠くてたどり着けません。
と言う事で、100名城スタンプを押すことができる場所はいくつもあったのですが、私は太宰府展示館で押させてもらいました。
なので、大宰府政庁跡の写真を。たぶん後ろに写っている山が大野城がある山だと思われます。
大野城は663年(天智天皇2年)の白村江の戦いで敗れた大和朝廷が、唐・新羅の攻撃に備え、大宰府を防衛するために造られた山城です。百済人の指導の下で造られた朝鮮式のお城だったようです。大野城跡には土塁、石塁、城門跡や建物の礎石が残っているそうです。
第12城 ~No.19 川越城~ [100名城スタンプ]
2019年4月3日川越城に行きました。ちょうど桜の季節です。
川越城は他の城跡とは違い、天守や石垣、堀や曲輪などの遺構があまり残っていません。しかしながら、江戸時代の城主御殿が残っているのは東日本では唯一だそうです。
川越城は扇谷上杉持朝が1457年(長禄元年)に太田道真・道灌親子に命じて造らせた城です。1537年(天文6年)に小田原北条氏が川越城を攻め落とし、北武蔵の支配を強めていきます。しかし、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原城攻めの際、川越城は前田利家らに攻められ降伏します。徳川家康が江戸に入ると、江戸城に近いこの川越城に酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名が配置されます。
江戸時代に、将軍が鷹狩りの時に川越城をたびたび使ったという記録があることからここは御成御殿だったと考えられています。
まずは城の南側にある富士見櫓跡です。ちょっと小高い丘です。住宅街の中にひっそりとありました。
上ってみました。富士見櫓というくらいなので、昔は富士山が見えたのでしょうが、残念ながら今は何も見えませんでした。
さあ川越城です。本丸御殿です。元々城主御殿は二の丸に建っていたようですが、1846年(弘化3年)火災で焼失するとその2年後本丸に御殿が再建されました。
当時は建物の数16棟、1025坪もある広大な建物だったようです。しかしながら、今現存しているのはほんの一部。明治以降城の役目を終えたことにより、多くの建物は解体されたようです。
家老詰所です。人形がいました。
現存する本丸御殿の中で一番広い36畳の広間です。来客がここで城主がお出ましになるまで待つ部屋だったようです。ここはドラマ『JIN‐仁‐』のロケでも使われていました。大沢たかおさんが座っていた場所に私も座ってニンマリしました。
この川越城は1639年(嘉永16年)、城主松平信綱により拡張整備が行われ、本丸、二の丸、三の丸、6つの曲輪、3つの櫓、そして13の門からなる巨大な城郭となったようです。
川越城の近くに新河岸川が流れています。川越氷川神社の裏手は川沿いに桜並木があり、桜がとても綺麗でした。ここがかつては川越城のお堀だったのだと思います。
川越城は他の城跡とは違い、天守や石垣、堀や曲輪などの遺構があまり残っていません。しかしながら、江戸時代の城主御殿が残っているのは東日本では唯一だそうです。
川越城は扇谷上杉持朝が1457年(長禄元年)に太田道真・道灌親子に命じて造らせた城です。1537年(天文6年)に小田原北条氏が川越城を攻め落とし、北武蔵の支配を強めていきます。しかし、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原城攻めの際、川越城は前田利家らに攻められ降伏します。徳川家康が江戸に入ると、江戸城に近いこの川越城に酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名が配置されます。
江戸時代に、将軍が鷹狩りの時に川越城をたびたび使ったという記録があることからここは御成御殿だったと考えられています。
まずは城の南側にある富士見櫓跡です。ちょっと小高い丘です。住宅街の中にひっそりとありました。
上ってみました。富士見櫓というくらいなので、昔は富士山が見えたのでしょうが、残念ながら今は何も見えませんでした。
さあ川越城です。本丸御殿です。元々城主御殿は二の丸に建っていたようですが、1846年(弘化3年)火災で焼失するとその2年後本丸に御殿が再建されました。
当時は建物の数16棟、1025坪もある広大な建物だったようです。しかしながら、今現存しているのはほんの一部。明治以降城の役目を終えたことにより、多くの建物は解体されたようです。
家老詰所です。人形がいました。
現存する本丸御殿の中で一番広い36畳の広間です。来客がここで城主がお出ましになるまで待つ部屋だったようです。ここはドラマ『JIN‐仁‐』のロケでも使われていました。大沢たかおさんが座っていた場所に私も座ってニンマリしました。
この川越城は1639年(嘉永16年)、城主松平信綱により拡張整備が行われ、本丸、二の丸、三の丸、6つの曲輪、3つの櫓、そして13の門からなる巨大な城郭となったようです。
川越城の近くに新河岸川が流れています。川越氷川神社の裏手は川沿いに桜並木があり、桜がとても綺麗でした。ここがかつては川越城のお堀だったのだと思います。
第11城 ~No.22 八王子城~ [100名城スタンプ]
2018年11月14日、八王子城へ行きました。
八王子城は小田原に本拠地を置いた小田原北条氏の支城の一つで、規模はその支城の中でも最大規模と言われ、三代目北条氏康の三男氏照が1582年(天正10年)頃から築き始めました。
JR高尾駅からバスで5分程、八王子城跡入口で下車。ここから徒歩で本丸を目指します。
静かな住宅街をしばらく歩くと八王子城のガイダンス施設が見えてきます。ここでは年表やジオラマなどで小田原北条氏について詳しく学べます。
さらに進むと管理棟が見えてきます。ここを左側に行くと北条氏照の館などがあったいわゆる居館地区が、右側に行くと本丸などがあったいわゆる要害地区があります。まずは居館地区へ行ってみます。
静かな杉林の中を進みます。城山川に沿って道があります。きちんと整備されているので迷うこともありません。
この辺は堀切の跡でしょうか。
大手門の跡です。今は埋め戻されているそうですが、調査で門の礎石や敷石が見つかったそうです。ここが八王子城の正面口と考えられています。どんな門が建っていたんでしょうね。
この道が御主殿に続く大手道と考えられているそうです。川を挟んで御主殿側にも道がありますが、それは江戸時代に作られた林道だそうで、それと区別するために今はこちら側の道を古道と呼んでいます。発掘調査では明確に道が検出されなかったそうですが、門の跡や石垣、尾根の中腹に平坦な場所があることから、ここが大手道だったことがわかったそうです。
橋が見えてきました。城山川の両岸に橋台石垣が見つかったことで、御主殿にわたるための橋が架かっていたことがわかりました。しかしながら、どんな橋だったかはわからないそうですが、敵の侵入を防ぐためすぐに壊せるような簡単な橋(曳橋)だったのではないかということです。なので、この橋は復元というわけではないそうです。
橋を渡りました。御主殿があった曲輪の手前です。ここには築城当時の石垣が残っていました。
こういうのはテンション上がります。
御主殿の入り口に当たる虎口です。ここの特徴はコの字になった階段の通路だというところです。
全面に石が敷かれているのは八王子城独特のものだそうです。石垣や敷石は出来るだけ当時の物をそのまま使っているんだそうです。
この虎口の踊り場から4つの礎石が見つかったそうです。櫓門が建っていたのではないかと想定されています。この丸い石がその礎石です。
いよいよ御主殿の入り口です。当時の門をイメージして建てられた冠木門です。八王子城というとこの門の写真をよく見ます。
広い!
北条氏照の館があったとされる場所です。発掘調査の結果、たくさんの建物の礎石や水路の跡など見つかり、今はその位置がわかるように整備されています。
ここは主殿跡で、政治的な行事が行われたと考えられています。平屋建てだったようです。
ここは会所。宴会などを行った場所と考えられています。同時代の建物を参考にして床を再現しているそうです。間取りなども表してあります。
会所と主殿に挟まれるように庭園があります。ここには枯山水の庭があったと推定され、会所から眺められるようになっていたようです。
会所から庭を見るとこんな感じ。どんなお庭だったのでしょうね。
出土品の中には中国から輸入された五彩皿やベネチアのレースガラス器もあったそうなので、そんな鮮やかな器で食事を楽しみながら、この庭を眺めていたのでしょうか。
御主殿跡の裏に回りました。
御主殿の滝です。落城の際、北条方の女たちがここで自刃したと伝わる場所です。その血で城山川の水が三日三晩赤く染まったとか。
さっき渡って来た曳橋の下に出ました。下から見ると石垣の高さがよくわかります。
先ほどの分かれ道、管理棟の所まで戻って来ました。これから本丸跡を目指します。徒歩で40分かかるらしく、ちょっと止めようかなと思いましたが、やはりお城好きとしては本丸まで行かないわけにはいかないです。
ヤバいです。狭くて急な坂道が続きます。途中、完璧な装備の山登りの男性に会いました。ちょっと観光のつもりでジーンズにスニーカーで来ちゃいました。ここは山登りする所だったのか。
登って10分、開けている所に出ました。金子丸です。この曲輪は金子三郎左衛門家重という人が守っていたと言われているそうです。
かなりヤバいです。まだまだ険しい山道が続きます。
登り始めて15分、柵門跡に来ました。尾根の上に作られた平坦地ですが、名前の由来など詳しいことはわかっていないそうです。まだ八合目。八王子神社まで400mって書いてあります。
途中、とても景色が良い場所がありました。遠くに新宿のビル群が見えました。ここでちょっとひと息。
登り始めて30分、八王子神社に着きました。何と言うか、なかなかの雰囲気のお社です。
913年(延喜13年)に華厳菩薩妙行が、山中で修行中に牛頭天王と八人の王子に出会い、916年(延喜16年)に八王子権現を祀ったと言われています。この伝説に基づき、北条氏照は築城にあたりこの八王子権現を城の守護神としました。これが八王子という地名の由来なんだそうです。
八王子神社の南側に松木曲輪があります。ここは中の丸とも二の丸とも呼ばれていたようです。神社の東側には小宮曲輪がありますが、完全に見逃したようです。反省。
登り始めて40分弱、ようやく本丸跡にたどり着きました。この小さな社はここを守っていた横地監物が祀られているそうです。
豊臣秀吉による攻撃で、八王子城はわずか1日で落城したそうです。先程見た松木曲輪の辺りは前田利家軍、小宮曲輪の辺りは上杉景勝軍に攻め込まれたそうです。
そんな激しい戦いに思いを馳せながら下山しましたが、登りがきつかったので下りは膝が笑っちゃいました。翌日から3日くらいは普通に歩くのも痛いくらいの筋肉痛でした。普段あまり運動をしない私でも登ることは出来ましたが、かなりハードだったので本丸を目指すにはそれなりの覚悟と装備が必要です。
八王子城は小田原に本拠地を置いた小田原北条氏の支城の一つで、規模はその支城の中でも最大規模と言われ、三代目北条氏康の三男氏照が1582年(天正10年)頃から築き始めました。
JR高尾駅からバスで5分程、八王子城跡入口で下車。ここから徒歩で本丸を目指します。
静かな住宅街をしばらく歩くと八王子城のガイダンス施設が見えてきます。ここでは年表やジオラマなどで小田原北条氏について詳しく学べます。
さらに進むと管理棟が見えてきます。ここを左側に行くと北条氏照の館などがあったいわゆる居館地区が、右側に行くと本丸などがあったいわゆる要害地区があります。まずは居館地区へ行ってみます。
静かな杉林の中を進みます。城山川に沿って道があります。きちんと整備されているので迷うこともありません。
この辺は堀切の跡でしょうか。
大手門の跡です。今は埋め戻されているそうですが、調査で門の礎石や敷石が見つかったそうです。ここが八王子城の正面口と考えられています。どんな門が建っていたんでしょうね。
この道が御主殿に続く大手道と考えられているそうです。川を挟んで御主殿側にも道がありますが、それは江戸時代に作られた林道だそうで、それと区別するために今はこちら側の道を古道と呼んでいます。発掘調査では明確に道が検出されなかったそうですが、門の跡や石垣、尾根の中腹に平坦な場所があることから、ここが大手道だったことがわかったそうです。
橋が見えてきました。城山川の両岸に橋台石垣が見つかったことで、御主殿にわたるための橋が架かっていたことがわかりました。しかしながら、どんな橋だったかはわからないそうですが、敵の侵入を防ぐためすぐに壊せるような簡単な橋(曳橋)だったのではないかということです。なので、この橋は復元というわけではないそうです。
橋を渡りました。御主殿があった曲輪の手前です。ここには築城当時の石垣が残っていました。
こういうのはテンション上がります。
御主殿の入り口に当たる虎口です。ここの特徴はコの字になった階段の通路だというところです。
全面に石が敷かれているのは八王子城独特のものだそうです。石垣や敷石は出来るだけ当時の物をそのまま使っているんだそうです。
この虎口の踊り場から4つの礎石が見つかったそうです。櫓門が建っていたのではないかと想定されています。この丸い石がその礎石です。
いよいよ御主殿の入り口です。当時の門をイメージして建てられた冠木門です。八王子城というとこの門の写真をよく見ます。
広い!
北条氏照の館があったとされる場所です。発掘調査の結果、たくさんの建物の礎石や水路の跡など見つかり、今はその位置がわかるように整備されています。
ここは主殿跡で、政治的な行事が行われたと考えられています。平屋建てだったようです。
ここは会所。宴会などを行った場所と考えられています。同時代の建物を参考にして床を再現しているそうです。間取りなども表してあります。
会所と主殿に挟まれるように庭園があります。ここには枯山水の庭があったと推定され、会所から眺められるようになっていたようです。
会所から庭を見るとこんな感じ。どんなお庭だったのでしょうね。
出土品の中には中国から輸入された五彩皿やベネチアのレースガラス器もあったそうなので、そんな鮮やかな器で食事を楽しみながら、この庭を眺めていたのでしょうか。
御主殿跡の裏に回りました。
御主殿の滝です。落城の際、北条方の女たちがここで自刃したと伝わる場所です。その血で城山川の水が三日三晩赤く染まったとか。
さっき渡って来た曳橋の下に出ました。下から見ると石垣の高さがよくわかります。
先ほどの分かれ道、管理棟の所まで戻って来ました。これから本丸跡を目指します。徒歩で40分かかるらしく、ちょっと止めようかなと思いましたが、やはりお城好きとしては本丸まで行かないわけにはいかないです。
ヤバいです。狭くて急な坂道が続きます。途中、完璧な装備の山登りの男性に会いました。ちょっと観光のつもりでジーンズにスニーカーで来ちゃいました。ここは山登りする所だったのか。
登って10分、開けている所に出ました。金子丸です。この曲輪は金子三郎左衛門家重という人が守っていたと言われているそうです。
かなりヤバいです。まだまだ険しい山道が続きます。
登り始めて15分、柵門跡に来ました。尾根の上に作られた平坦地ですが、名前の由来など詳しいことはわかっていないそうです。まだ八合目。八王子神社まで400mって書いてあります。
途中、とても景色が良い場所がありました。遠くに新宿のビル群が見えました。ここでちょっとひと息。
登り始めて30分、八王子神社に着きました。何と言うか、なかなかの雰囲気のお社です。
913年(延喜13年)に華厳菩薩妙行が、山中で修行中に牛頭天王と八人の王子に出会い、916年(延喜16年)に八王子権現を祀ったと言われています。この伝説に基づき、北条氏照は築城にあたりこの八王子権現を城の守護神としました。これが八王子という地名の由来なんだそうです。
八王子神社の南側に松木曲輪があります。ここは中の丸とも二の丸とも呼ばれていたようです。神社の東側には小宮曲輪がありますが、完全に見逃したようです。反省。
登り始めて40分弱、ようやく本丸跡にたどり着きました。この小さな社はここを守っていた横地監物が祀られているそうです。
豊臣秀吉による攻撃で、八王子城はわずか1日で落城したそうです。先程見た松木曲輪の辺りは前田利家軍、小宮曲輪の辺りは上杉景勝軍に攻め込まれたそうです。
そんな激しい戦いに思いを馳せながら下山しましたが、登りがきつかったので下りは膝が笑っちゃいました。翌日から3日くらいは普通に歩くのも痛いくらいの筋肉痛でした。普段あまり運動をしない私でも登ることは出来ましたが、かなりハードだったので本丸を目指すにはそれなりの覚悟と装備が必要です。
第10城 ~No.52 観音寺城~ [100名城スタンプ]
第9城 ~No.51 安土城~その2 [100名城スタンプ]
黒金門跡です。安土城の中枢部への入り口です。天主に近づいて来た雰囲気がしてきました。この辺りの石垣には本能寺の変後の火災によって焦げたと思われる部分があるそうです。が、見逃しました。また反省です。
仏足石です。大手道でも使われていましたが、これも石垣に使われていたもので、元々はお釈迦様の足跡を表現したもので崇拝の対象だったそうです。
二の丸跡です。ここには織田信長本廟があります。羽柴秀吉が信長の遺品を埋葬し本廟としました。
本丸跡です。ここには119個もの礎石が見つかり、その配列から中庭を挟んで三棟建っていたと推測され、天皇の住まいである内裏清涼殿とよく似ていることから、天皇を迎えるための御殿と考えられています。
本丸を抜けるといよいよ天主です。
礎石がたくさんありました。ここには地下1階地上6階の7階建ての天主が建っていたと言われています。地面地下1階の部分は面積が狭いようですが、地上1階部分はこの2倍以上あったようなので、周りの石垣は実際はもっと大きく、(京都の清水寺のような)懸け造りで1階部分をを支えていたのではないかという研究もあるようです。天主は中央が吹き抜けになっていたと言われているので、この礎石も中央が空いています。
ここからの眺めです。実際は高さ33mあったようなので、もっと景色が良かったんでしょうね。見たかったな。当時ここに入る家臣たちからお金を取っていたっていうんですから、凄い発想。しかもここは天皇を迎える御殿よりも高い所にあります。自分は天皇よりも上の存在だと言っているようなものです。本当に凄い人です。
先ほどの織田信忠邸跡まで戻り、道を右へ行くと総見寺跡です。この先は開けているようです。
総見寺跡です。信長が安土城を築く際、他所から移築したものと伝わります。本能寺の変ではここは焼けなかったようですが、江戸時代末期に
伽藍の一部が焼失、昭和初期に大手道脇の徳川家康屋敷跡と伝わる場所に仮本堂が造られ今に至っています。
この大手道の右側に仮本堂があります。ちらっとしか映ってませんが。
ここからも良い景色が見えました。
三重塔です。これは室町時代の建物で1454年(享徳3年)建立、やはり安土城築城の際、甲賀郡からここへ移築させたそうです。
道を下りていくと見えてきたのは二王門です。1571年(元亀2年)建立。これも甲賀郡から移築したものです。門内には金剛力士像があります。とても趣のある門です。これらを信長も見ていたのかと思うと感慨深いです。
更に進んでいくと羽柴秀吉屋敷跡に出ます。これで一周したことになります。
麓に降りてきました。城なび館というものがあって、ここには安土城ひな型7分の1スケールがありました。天主5,6階部分の模型です。でも復元したものには著作権が発生するらしく、もう忘れましたがこれも著作権が発生するといけないので写真はアップしません。
安土城考古博物館とそのすぐ近くにある安土城天主信長の館です。
信長の館は絶対に行ってください!織田信長が明智光秀に命じ、徳川家康を接待した時に出されたとされる料理天正十年安土御献立が復元され展示されています。
そして目玉は原寸大で復元された安土城天主最上部5,6階部分の展示です。八角形の5階は柱などが朱塗り、内側には金箔が張られ、襖や天井には狩野永徳と弟子たちが描いた釈迦説法図などの仏教の世界観による理想郷を表現した障壁画が復元され、最上階6階は外壁は金箔で覆われ、内部は黒漆塗り。孟子、孔子などを描いた中国故事に基づいた障壁画が復元されています。その豪華絢爛さは圧巻です。しかしながら、はやり著作権の関係で写真はアップできません。
因みにJR安土駅はこの安土城をイメージした駅舎でした。
こんな凄い天主が本当に存在していたんだと思うと、やはり織田信長恐るべし。しかもこの安土城全体を提灯で飾り付けライトアップしていたと言うんですから、本当にその発想はどこから来るのかと驚かされます。もしもタイムスリップすることが出来たら、この安土城が存在した時代に行って、ライトアップされたお城を見てみたいです。信長の館ではそのVRも楽しめるのでおススメです!
仏足石です。大手道でも使われていましたが、これも石垣に使われていたもので、元々はお釈迦様の足跡を表現したもので崇拝の対象だったそうです。
二の丸跡です。ここには織田信長本廟があります。羽柴秀吉が信長の遺品を埋葬し本廟としました。
本丸跡です。ここには119個もの礎石が見つかり、その配列から中庭を挟んで三棟建っていたと推測され、天皇の住まいである内裏清涼殿とよく似ていることから、天皇を迎えるための御殿と考えられています。
本丸を抜けるといよいよ天主です。
礎石がたくさんありました。ここには地下1階地上6階の7階建ての天主が建っていたと言われています。地面地下1階の部分は面積が狭いようですが、地上1階部分はこの2倍以上あったようなので、周りの石垣は実際はもっと大きく、(京都の清水寺のような)懸け造りで1階部分をを支えていたのではないかという研究もあるようです。天主は中央が吹き抜けになっていたと言われているので、この礎石も中央が空いています。
ここからの眺めです。実際は高さ33mあったようなので、もっと景色が良かったんでしょうね。見たかったな。当時ここに入る家臣たちからお金を取っていたっていうんですから、凄い発想。しかもここは天皇を迎える御殿よりも高い所にあります。自分は天皇よりも上の存在だと言っているようなものです。本当に凄い人です。
先ほどの織田信忠邸跡まで戻り、道を右へ行くと総見寺跡です。この先は開けているようです。
総見寺跡です。信長が安土城を築く際、他所から移築したものと伝わります。本能寺の変ではここは焼けなかったようですが、江戸時代末期に
伽藍の一部が焼失、昭和初期に大手道脇の徳川家康屋敷跡と伝わる場所に仮本堂が造られ今に至っています。
この大手道の右側に仮本堂があります。ちらっとしか映ってませんが。
ここからも良い景色が見えました。
三重塔です。これは室町時代の建物で1454年(享徳3年)建立、やはり安土城築城の際、甲賀郡からここへ移築させたそうです。
道を下りていくと見えてきたのは二王門です。1571年(元亀2年)建立。これも甲賀郡から移築したものです。門内には金剛力士像があります。とても趣のある門です。これらを信長も見ていたのかと思うと感慨深いです。
更に進んでいくと羽柴秀吉屋敷跡に出ます。これで一周したことになります。
麓に降りてきました。城なび館というものがあって、ここには安土城ひな型7分の1スケールがありました。天主5,6階部分の模型です。でも復元したものには著作権が発生するらしく、もう忘れましたがこれも著作権が発生するといけないので写真はアップしません。
安土城考古博物館とそのすぐ近くにある安土城天主信長の館です。
信長の館は絶対に行ってください!織田信長が明智光秀に命じ、徳川家康を接待した時に出されたとされる料理天正十年安土御献立が復元され展示されています。
そして目玉は原寸大で復元された安土城天主最上部5,6階部分の展示です。八角形の5階は柱などが朱塗り、内側には金箔が張られ、襖や天井には狩野永徳と弟子たちが描いた釈迦説法図などの仏教の世界観による理想郷を表現した障壁画が復元され、最上階6階は外壁は金箔で覆われ、内部は黒漆塗り。孟子、孔子などを描いた中国故事に基づいた障壁画が復元されています。その豪華絢爛さは圧巻です。しかしながら、はやり著作権の関係で写真はアップできません。
因みにJR安土駅はこの安土城をイメージした駅舎でした。
こんな凄い天主が本当に存在していたんだと思うと、やはり織田信長恐るべし。しかもこの安土城全体を提灯で飾り付けライトアップしていたと言うんですから、本当にその発想はどこから来るのかと驚かされます。もしもタイムスリップすることが出来たら、この安土城が存在した時代に行って、ライトアップされたお城を見てみたいです。信長の館ではそのVRも楽しめるのでおススメです!
第9城 ~No.51 安土城~その1 [100名城スタンプ]
次は安土城です。ここもぜひとも来たかった城跡です。
やはり織田信長に興味があるんですよね。
なので安土は信長に関する見所がたくさん。
まず観光案内所で教えてもらったのが活津(いくつ)彦根神社。
1576年(天正4年)織田信長が安土城を築くにあたり、ここで国家安寧五穀豊穣など祈念したそうです。
セミナリヨ跡です。オルガンチーノ神父により高山右近などの援助を受けここにカトリック小神学校を造りました。たびたび信長もここを訪れていたとか。綺麗に整備されていて桜がきれいでした。
山の麓に石垣が連なっているのが遠くからも見えました。
発掘調査が進み、石垣も復元されていました。ここは大手門の西に位置する場所に築かれた虎口です。礎石もいくつか見つかっているので何か建物が建っていたのではないか、更にはこの虎口の西側には物見櫓のような物も建っていたのではないかと推測されているようです。
東へ進みます。また虎口がありました。大手門の西側にある虎口で、二度折れして入る枡形虎口とそのすぐ東側には平入り虎口と呼ばれる門があり、その大きさから櫓門があったのではないかと言われているそうです。
ここは大手門の東側にある虎口で、礎石が残っていないので規模はわからないですが門があり、この上段には屋敷があり、賓客をこの虎口から招き入れ屋敷へ案内したのではないかと考えられています。
大手道の正面に大手門があったと思われます。織田信長が門を三つ作ったのは、安土城に天皇の行幸を計画していたので、京の内裏を真似て三門にしたのではないかと考えられているそうです。
さあ大手道を登って行きましょう。天主跡まで405段って書いてあります。
横に広く真っ直ぐと伸びた大手道です。普通大手道は狭く枡形にするなどして、敵が攻めにくいように作るものなのに、こんな広々とした大手道を作るなんて織田信長の発想って本当に凄いなと思います。
しかもこの大手道には石仏をいくつも使っています。神も仏も何とも思っていなかった、と言われていますが、実はこの時代石垣などの普請にはこういう石仏を転用することは多かったようです。
大手道を少し登ると左側に羽柴秀吉が住んでいたと伝わる屋敷跡があります。入口には大きな櫓門が建っていて、最古の物ではないかと言われているそうです。下の広場になっている所には厩があり、この石垣の上には大手道に面して高麗門があり重層の隅櫓が建ち防御も固く、門の先には台所、更に奥には主殿が建っていたようです。この広さと石垣の高さを見ても、とても立派な屋敷が建っていたんだろうなと想像できます。
羽柴秀吉屋敷跡の大手道を挟んだ向かい側には前田利家屋敷跡です。今は狭いですが、規模は大きく羽柴秀吉と同じくらいの櫓門があり、更には多門櫓や隅櫓などもあり防御性が高い屋敷だったようです。
大手道をだいぶ登りました。もうすぐ曲がり角です。
振り返って見ます。結構な高さなのがわかります。麓も町も小さく見えます。
広い大手道を登り切ると左側にあるのが武井夕庵屋敷跡と伝わる場所があります。武井夕庵は元々斎藤道三に仕えその後織田信長に仕えました。信長の右筆であり茶人と言われていて、信長にも何度も讒言したという武将です。
更に進むと右側に織田信長の嫡男、織田信忠屋敷跡があります。この道を右に行くと天主へ、そのまま真っ直ぐ行くと総見寺跡に行きます。まずは天主を目指します。
天主への道はまだまだ続きます。
織田信澄邸跡、森蘭丸邸跡もありました。
その2へ続く。
やはり織田信長に興味があるんですよね。
なので安土は信長に関する見所がたくさん。
まず観光案内所で教えてもらったのが活津(いくつ)彦根神社。
1576年(天正4年)織田信長が安土城を築くにあたり、ここで国家安寧五穀豊穣など祈念したそうです。
セミナリヨ跡です。オルガンチーノ神父により高山右近などの援助を受けここにカトリック小神学校を造りました。たびたび信長もここを訪れていたとか。綺麗に整備されていて桜がきれいでした。
山の麓に石垣が連なっているのが遠くからも見えました。
発掘調査が進み、石垣も復元されていました。ここは大手門の西に位置する場所に築かれた虎口です。礎石もいくつか見つかっているので何か建物が建っていたのではないか、更にはこの虎口の西側には物見櫓のような物も建っていたのではないかと推測されているようです。
東へ進みます。また虎口がありました。大手門の西側にある虎口で、二度折れして入る枡形虎口とそのすぐ東側には平入り虎口と呼ばれる門があり、その大きさから櫓門があったのではないかと言われているそうです。
ここは大手門の東側にある虎口で、礎石が残っていないので規模はわからないですが門があり、この上段には屋敷があり、賓客をこの虎口から招き入れ屋敷へ案内したのではないかと考えられています。
大手道の正面に大手門があったと思われます。織田信長が門を三つ作ったのは、安土城に天皇の行幸を計画していたので、京の内裏を真似て三門にしたのではないかと考えられているそうです。
さあ大手道を登って行きましょう。天主跡まで405段って書いてあります。
横に広く真っ直ぐと伸びた大手道です。普通大手道は狭く枡形にするなどして、敵が攻めにくいように作るものなのに、こんな広々とした大手道を作るなんて織田信長の発想って本当に凄いなと思います。
しかもこの大手道には石仏をいくつも使っています。神も仏も何とも思っていなかった、と言われていますが、実はこの時代石垣などの普請にはこういう石仏を転用することは多かったようです。
大手道を少し登ると左側に羽柴秀吉が住んでいたと伝わる屋敷跡があります。入口には大きな櫓門が建っていて、最古の物ではないかと言われているそうです。下の広場になっている所には厩があり、この石垣の上には大手道に面して高麗門があり重層の隅櫓が建ち防御も固く、門の先には台所、更に奥には主殿が建っていたようです。この広さと石垣の高さを見ても、とても立派な屋敷が建っていたんだろうなと想像できます。
羽柴秀吉屋敷跡の大手道を挟んだ向かい側には前田利家屋敷跡です。今は狭いですが、規模は大きく羽柴秀吉と同じくらいの櫓門があり、更には多門櫓や隅櫓などもあり防御性が高い屋敷だったようです。
大手道をだいぶ登りました。もうすぐ曲がり角です。
振り返って見ます。結構な高さなのがわかります。麓も町も小さく見えます。
広い大手道を登り切ると左側にあるのが武井夕庵屋敷跡と伝わる場所があります。武井夕庵は元々斎藤道三に仕えその後織田信長に仕えました。信長の右筆であり茶人と言われていて、信長にも何度も讒言したという武将です。
更に進むと右側に織田信長の嫡男、織田信忠屋敷跡があります。この道を右に行くと天主へ、そのまま真っ直ぐ行くと総見寺跡に行きます。まずは天主を目指します。
天主への道はまだまだ続きます。
織田信澄邸跡、森蘭丸邸跡もありました。
その2へ続く。
第8城 ~No.50 彦根城~その3 [100名城スタンプ]
井戸曲輪から坂を下りて黒御門跡にやって来ました。
内堀に架かる橋を渡ると名勝玄宮園があります。広いお堀には白鳥がいました。
ここは第4代藩主井伊直興が1677年(延宝5年)から7年かけて造営した庭園です。下屋敷として槻御殿も同時期に造られました。この槻御殿は数棟の東屋からなっていて、何度か修理を加えられながらも当時の面影を残しています。大老井伊直弼はここで生まれたのだそうです。
中央に大きな池泉を堀り、大小4つの島を造り様々な形式の橋を架け、自由に回遊できるようにしたお庭です。ここから天守が見えます。彦根城と言ったらここからの景色が有名なのではないでしょうか。
さて、また佐和口まで戻って来ました。ここから中堀に沿って京橋口の方へ回ってみます。
中堀の角です。桜が石垣を覆うくらいに咲いています。佐和口多門櫓の向こうに天秤櫓と天守が見えます。高い石垣も見えてベストポジションです。
京橋口が見えてきました。左側に行くと夢京橋キャッスルロードです。たくさんのお土産屋さんや食べ物屋さんが並んでいます。
京橋口です。ここも枡形です。かつてここには2階2重の櫓門があり、その両側に多門櫓が伸びていたようです。しかもその多門櫓の内部には雁木と呼ばれる長大な石の階段があり、多くの城兵が一度に駆け上がれるようにしたのだそうです。今もその雁木が残っています。
この雁木を登ると夢京橋キャッスルロードが見えます。
また内堀に出て来ました。表御門に架かる橋が見えます。
堀の右側は二の丸でここには馬屋がありました。
藩主の馬などを常備したL字形になった建物で、畳敷きの小部屋もあったようです。21頭もの馬を収容できたそうです。
夜の彦根城です。ライトアップされた桜がとても綺麗で、夜になるとさらに水面が鏡のようになり幻想的です。時間帯によって空の明るさが変わり、時間が経つにつれ漆黒の中の桜が際立ちます。
内堀に架かる橋を渡ると名勝玄宮園があります。広いお堀には白鳥がいました。
ここは第4代藩主井伊直興が1677年(延宝5年)から7年かけて造営した庭園です。下屋敷として槻御殿も同時期に造られました。この槻御殿は数棟の東屋からなっていて、何度か修理を加えられながらも当時の面影を残しています。大老井伊直弼はここで生まれたのだそうです。
中央に大きな池泉を堀り、大小4つの島を造り様々な形式の橋を架け、自由に回遊できるようにしたお庭です。ここから天守が見えます。彦根城と言ったらここからの景色が有名なのではないでしょうか。
さて、また佐和口まで戻って来ました。ここから中堀に沿って京橋口の方へ回ってみます。
中堀の角です。桜が石垣を覆うくらいに咲いています。佐和口多門櫓の向こうに天秤櫓と天守が見えます。高い石垣も見えてベストポジションです。
京橋口が見えてきました。左側に行くと夢京橋キャッスルロードです。たくさんのお土産屋さんや食べ物屋さんが並んでいます。
京橋口です。ここも枡形です。かつてここには2階2重の櫓門があり、その両側に多門櫓が伸びていたようです。しかもその多門櫓の内部には雁木と呼ばれる長大な石の階段があり、多くの城兵が一度に駆け上がれるようにしたのだそうです。今もその雁木が残っています。
この雁木を登ると夢京橋キャッスルロードが見えます。
また内堀に出て来ました。表御門に架かる橋が見えます。
堀の右側は二の丸でここには馬屋がありました。
藩主の馬などを常備したL字形になった建物で、畳敷きの小部屋もあったようです。21頭もの馬を収容できたそうです。
夜の彦根城です。ライトアップされた桜がとても綺麗で、夜になるとさらに水面が鏡のようになり幻想的です。時間帯によって空の明るさが変わり、時間が経つにつれ漆黒の中の桜が際立ちます。
第8城 ~No.50 彦根城~その2 [100名城スタンプ]
とうとうやって来ました、本丸です。ひこにゃんのパネルがありました。
とにかく桜と天守を撮りまくりました。
天守附櫓及び多門櫓。3階3重のこの天守は大津城から移築したもので、1607年(慶長12年)に完成したそうです。3階部分には高欄があり、たくさんの狭間も外側からは見えないように隠してあります。破風がある部分には4,5人は入れるくらいのスペースがあって、隠してある狭間を破って敵を狙うのだそうです。機能的かつ美しさも備えた天守です。そして、この天守の面白いところは正面、横、裏と見る角度によって全然違う表情を見せるところです。
もちろん天守の中にも入れます。この後に訪れる玄宮園や西の丸に咲く桜が見えました。
天守の裏側へ回って来ました。この時は多門櫓の壁が剥がれてしまっていてちょっと残念でした。
本丸の下には井戸曲輪があります。かつて曲輪の隅には塩櫓があり曲輪の中には井戸がありました。籠城に必要な塩と水をここで確保できるようにしていたようです。
曲輪の石垣は高さが10m以上ある高石垣になっていて、高い所では19mもあるそうです。彦根城の中でも最も堅牢な石垣になっています。彦根城の中でも石垣が格好良くて個人的に好きなスポットです。
ここは映画『関ケ原』でもロケで使われていました。彦根城のシーンではないのに「あ、ここ彦根城だ」と分かってしまうので、物語に入り込めないことがあります。
井戸曲輪から坂道を下って行くと黒門があります。この先は玄宮園です。それはたまた後程。
さっき天守から見えた西の丸です。ここにも色々な種類の桜が咲いていました。
西の丸には三重櫓及び続櫓があります。三重櫓と一階の櫓がくの字に繋がっています。この三重櫓は小谷城天守を移築したものと伝わっているそうです。
ここも中に入ることが出来ます。さっき見ていた天守が見えました。
三重櫓及び続櫓の先に進みます。ここも枡形ですね。
橋が架かっています。この下は大堀切です。その名の通りとても深い空堀です。裏側からの敵の侵入に備えたものです。
大堀切を越えた先は馬出の機能も備えた出曲輪になっています。ここの石垣はあの穴太衆が築いたらしいですよ。ここもカッコ良いフォトスポットです。
ここを下りていくと散策路のようになっています。内堀に沿って歩く感じです。
その先には梅林がありました。もう梅の季節は過ぎていましたが少しだけ花が残っていました。この梅は昭和25年に新日本観光百選に選ばれたことを記念して植えられたものです。元々は幕府から預かる五万石分の米を収める米蔵があった場所だそうです。
さらに先に進むと大手門券売所があります。そこから上に長く伸びる坂があります。この上にはさっきまでいた太鼓丸や鐘の丸があります。
天秤櫓が見えてきました。
大堀切です。天秤櫓の下まで戻って来ましたね。
これで内堀の中の主な場所は回ったことになります。次は内堀の外側の玄宮園や中堀に沿って歩きます。続く。
とにかく桜と天守を撮りまくりました。
天守附櫓及び多門櫓。3階3重のこの天守は大津城から移築したもので、1607年(慶長12年)に完成したそうです。3階部分には高欄があり、たくさんの狭間も外側からは見えないように隠してあります。破風がある部分には4,5人は入れるくらいのスペースがあって、隠してある狭間を破って敵を狙うのだそうです。機能的かつ美しさも備えた天守です。そして、この天守の面白いところは正面、横、裏と見る角度によって全然違う表情を見せるところです。
もちろん天守の中にも入れます。この後に訪れる玄宮園や西の丸に咲く桜が見えました。
天守の裏側へ回って来ました。この時は多門櫓の壁が剥がれてしまっていてちょっと残念でした。
本丸の下には井戸曲輪があります。かつて曲輪の隅には塩櫓があり曲輪の中には井戸がありました。籠城に必要な塩と水をここで確保できるようにしていたようです。
曲輪の石垣は高さが10m以上ある高石垣になっていて、高い所では19mもあるそうです。彦根城の中でも最も堅牢な石垣になっています。彦根城の中でも石垣が格好良くて個人的に好きなスポットです。
ここは映画『関ケ原』でもロケで使われていました。彦根城のシーンではないのに「あ、ここ彦根城だ」と分かってしまうので、物語に入り込めないことがあります。
井戸曲輪から坂道を下って行くと黒門があります。この先は玄宮園です。それはたまた後程。
さっき天守から見えた西の丸です。ここにも色々な種類の桜が咲いていました。
西の丸には三重櫓及び続櫓があります。三重櫓と一階の櫓がくの字に繋がっています。この三重櫓は小谷城天守を移築したものと伝わっているそうです。
ここも中に入ることが出来ます。さっき見ていた天守が見えました。
三重櫓及び続櫓の先に進みます。ここも枡形ですね。
橋が架かっています。この下は大堀切です。その名の通りとても深い空堀です。裏側からの敵の侵入に備えたものです。
大堀切を越えた先は馬出の機能も備えた出曲輪になっています。ここの石垣はあの穴太衆が築いたらしいですよ。ここもカッコ良いフォトスポットです。
ここを下りていくと散策路のようになっています。内堀に沿って歩く感じです。
その先には梅林がありました。もう梅の季節は過ぎていましたが少しだけ花が残っていました。この梅は昭和25年に新日本観光百選に選ばれたことを記念して植えられたものです。元々は幕府から預かる五万石分の米を収める米蔵があった場所だそうです。
さらに先に進むと大手門券売所があります。そこから上に長く伸びる坂があります。この上にはさっきまでいた太鼓丸や鐘の丸があります。
天秤櫓が見えてきました。
大堀切です。天秤櫓の下まで戻って来ましたね。
これで内堀の中の主な場所は回ったことになります。次は内堀の外側の玄宮園や中堀に沿って歩きます。続く。