第8城 ~No.50 彦根城~その2 [100名城スタンプ]
とうとうやって来ました、本丸です。ひこにゃんのパネルがありました。
とにかく桜と天守を撮りまくりました。
天守附櫓及び多門櫓。3階3重のこの天守は大津城から移築したもので、1607年(慶長12年)に完成したそうです。3階部分には高欄があり、たくさんの狭間も外側からは見えないように隠してあります。破風がある部分には4,5人は入れるくらいのスペースがあって、隠してある狭間を破って敵を狙うのだそうです。機能的かつ美しさも備えた天守です。そして、この天守の面白いところは正面、横、裏と見る角度によって全然違う表情を見せるところです。
もちろん天守の中にも入れます。この後に訪れる玄宮園や西の丸に咲く桜が見えました。
天守の裏側へ回って来ました。この時は多門櫓の壁が剥がれてしまっていてちょっと残念でした。
本丸の下には井戸曲輪があります。かつて曲輪の隅には塩櫓があり曲輪の中には井戸がありました。籠城に必要な塩と水をここで確保できるようにしていたようです。
曲輪の石垣は高さが10m以上ある高石垣になっていて、高い所では19mもあるそうです。彦根城の中でも最も堅牢な石垣になっています。彦根城の中でも石垣が格好良くて個人的に好きなスポットです。
ここは映画『関ケ原』でもロケで使われていました。彦根城のシーンではないのに「あ、ここ彦根城だ」と分かってしまうので、物語に入り込めないことがあります。
井戸曲輪から坂道を下って行くと黒門があります。この先は玄宮園です。それはたまた後程。
さっき天守から見えた西の丸です。ここにも色々な種類の桜が咲いていました。
西の丸には三重櫓及び続櫓があります。三重櫓と一階の櫓がくの字に繋がっています。この三重櫓は小谷城天守を移築したものと伝わっているそうです。
ここも中に入ることが出来ます。さっき見ていた天守が見えました。
三重櫓及び続櫓の先に進みます。ここも枡形ですね。
橋が架かっています。この下は大堀切です。その名の通りとても深い空堀です。裏側からの敵の侵入に備えたものです。
大堀切を越えた先は馬出の機能も備えた出曲輪になっています。ここの石垣はあの穴太衆が築いたらしいですよ。ここもカッコ良いフォトスポットです。
ここを下りていくと散策路のようになっています。内堀に沿って歩く感じです。
その先には梅林がありました。もう梅の季節は過ぎていましたが少しだけ花が残っていました。この梅は昭和25年に新日本観光百選に選ばれたことを記念して植えられたものです。元々は幕府から預かる五万石分の米を収める米蔵があった場所だそうです。
さらに先に進むと大手門券売所があります。そこから上に長く伸びる坂があります。この上にはさっきまでいた太鼓丸や鐘の丸があります。
天秤櫓が見えてきました。
大堀切です。天秤櫓の下まで戻って来ましたね。
これで内堀の中の主な場所は回ったことになります。次は内堀の外側の玄宮園や中堀に沿って歩きます。続く。
とにかく桜と天守を撮りまくりました。
天守附櫓及び多門櫓。3階3重のこの天守は大津城から移築したもので、1607年(慶長12年)に完成したそうです。3階部分には高欄があり、たくさんの狭間も外側からは見えないように隠してあります。破風がある部分には4,5人は入れるくらいのスペースがあって、隠してある狭間を破って敵を狙うのだそうです。機能的かつ美しさも備えた天守です。そして、この天守の面白いところは正面、横、裏と見る角度によって全然違う表情を見せるところです。
もちろん天守の中にも入れます。この後に訪れる玄宮園や西の丸に咲く桜が見えました。
天守の裏側へ回って来ました。この時は多門櫓の壁が剥がれてしまっていてちょっと残念でした。
本丸の下には井戸曲輪があります。かつて曲輪の隅には塩櫓があり曲輪の中には井戸がありました。籠城に必要な塩と水をここで確保できるようにしていたようです。
曲輪の石垣は高さが10m以上ある高石垣になっていて、高い所では19mもあるそうです。彦根城の中でも最も堅牢な石垣になっています。彦根城の中でも石垣が格好良くて個人的に好きなスポットです。
ここは映画『関ケ原』でもロケで使われていました。彦根城のシーンではないのに「あ、ここ彦根城だ」と分かってしまうので、物語に入り込めないことがあります。
井戸曲輪から坂道を下って行くと黒門があります。この先は玄宮園です。それはたまた後程。
さっき天守から見えた西の丸です。ここにも色々な種類の桜が咲いていました。
西の丸には三重櫓及び続櫓があります。三重櫓と一階の櫓がくの字に繋がっています。この三重櫓は小谷城天守を移築したものと伝わっているそうです。
ここも中に入ることが出来ます。さっき見ていた天守が見えました。
三重櫓及び続櫓の先に進みます。ここも枡形ですね。
橋が架かっています。この下は大堀切です。その名の通りとても深い空堀です。裏側からの敵の侵入に備えたものです。
大堀切を越えた先は馬出の機能も備えた出曲輪になっています。ここの石垣はあの穴太衆が築いたらしいですよ。ここもカッコ良いフォトスポットです。
ここを下りていくと散策路のようになっています。内堀に沿って歩く感じです。
その先には梅林がありました。もう梅の季節は過ぎていましたが少しだけ花が残っていました。この梅は昭和25年に新日本観光百選に選ばれたことを記念して植えられたものです。元々は幕府から預かる五万石分の米を収める米蔵があった場所だそうです。
さらに先に進むと大手門券売所があります。そこから上に長く伸びる坂があります。この上にはさっきまでいた太鼓丸や鐘の丸があります。
天秤櫓が見えてきました。
大堀切です。天秤櫓の下まで戻って来ましたね。
これで内堀の中の主な場所は回ったことになります。次は内堀の外側の玄宮園や中堀に沿って歩きます。続く。
第8城 ~No.50 彦根城~その1 [100名城スタンプ]
2018年4月3日、彦根城にやって来ました。私の100名城スタンプラリー史上松本城に続く2つ目の国宝そして現存天守のお城です。
桜も見頃なのでワクワクします。
まずは彦根駅前。井伊直政像がありました。大河ドラマ『おんな城主直虎』を観た後だと、直政につい感情移入してしまいます。
駅前の通りをまっすぐ進めば彦根城天守が見えてきます。
いろは松です。中堀の脇に松が並んでいて風情があります。ちらっと天守が見えるのがわかるでしょうか。その中堀には桜と石垣が鏡のように反射して見えて、ここは彦根城でも有名な撮影スポットですね。この中堀の写真はまた後でまとめて載せます。
いろは松を抜けて正面が佐和口です。佐和口多門櫓があります。
この佐和口多門櫓の向かい側に埋木舎があります。ここは井伊直弼が17歳から32歳まで過ごした場所で、茶道、華道、武道などを学んだのだそうです。
さあいよいよ佐和口を抜けて二の丸を通り本丸を目指します。
内堀にかかる橋を渡ると表御門跡です。
大きな石垣もあるので、きっと立派な門が建っていたのでしょうね。
表御門跡のすぐ近くにある登り石垣です。石垣が山を登るように築かれていて、その横は竪堀になっていて侵入者の動きを阻止するように出来ています。こういった石垣を見るだけでワクワクします。
このような上に伸びていくような石垣は全国的にも珍しいそうで、豊臣秀吉が行った朝鮮出兵の時に築いた倭城に顕著に見られるそうです。日本では洲本城や松山城などごく限られたお城にしかないそうです。
券売所の反対側には表御殿があります。藩主が公的な行事を行った場所と私的な場所と両方があった建物で明治維新後に一度取り壊されましたが、1987年(昭和62年)に復元され、今は彦根城博物館になっています。ひこにゃんがショーを行う場所にもなっています。とにかくひこにゃんがゆるくて可愛かったです。
券売所を抜けて坂道を上ると建物が見えてきます。天秤櫓です。
長浜城の大手門を移築したものと伝わるそうです。左右対称の櫓で天秤のように見えることから天秤櫓と呼ばれています。ここに架かる橋はいざとなったら落として侵入者を防ぐのだそうです。
天秤櫓が乗っている石垣は左右で組み方が違います。右側は築城当初の牛蒡積みと呼ばれる積み方。右側がこれ。
左側がこれ。こちら側は大規模な修理が行われた1854年(嘉永7年)の石垣で、切石の落し積みです。どうでしょう、結構違いますね。
天秤櫓は裏側から見るとコの字になっているのがよくわかります。
この天秤櫓は中に入ることができます。狭間があるのがわかります。
さっき歩いてきた所が見えます。ここからなら敵を狙えますね。
天秤櫓の正面は鐘の丸になっていて、築城当初は鐘楼があったそうですが後に移築されました。今は広場になっていて色々な種類の桜の木が植わっていました。
さあ、天秤櫓をくぐって先へ進みます。
ちらりと天守が見えます。ワクワク。
見えてきたのは太鼓門及び続櫓。本丸の表口を固める櫓門です。築城当時にどこかのお城から移築されてきたらしいです。この門の裏側は高欄付きになっていてとても珍しい構造です。
鐘の丸にあった鐘楼がここに移築されています。この鐘自体は1844年(弘化元年)に鋳造したものですが、今も1日5回ついているそうです。
載せたい写真がたくさんあり過ぎて長くなるので、一旦ここで閉めます。
その2に続きます。
桜も見頃なのでワクワクします。
まずは彦根駅前。井伊直政像がありました。大河ドラマ『おんな城主直虎』を観た後だと、直政につい感情移入してしまいます。
駅前の通りをまっすぐ進めば彦根城天守が見えてきます。
いろは松です。中堀の脇に松が並んでいて風情があります。ちらっと天守が見えるのがわかるでしょうか。その中堀には桜と石垣が鏡のように反射して見えて、ここは彦根城でも有名な撮影スポットですね。この中堀の写真はまた後でまとめて載せます。
いろは松を抜けて正面が佐和口です。佐和口多門櫓があります。
この佐和口多門櫓の向かい側に埋木舎があります。ここは井伊直弼が17歳から32歳まで過ごした場所で、茶道、華道、武道などを学んだのだそうです。
さあいよいよ佐和口を抜けて二の丸を通り本丸を目指します。
内堀にかかる橋を渡ると表御門跡です。
大きな石垣もあるので、きっと立派な門が建っていたのでしょうね。
表御門跡のすぐ近くにある登り石垣です。石垣が山を登るように築かれていて、その横は竪堀になっていて侵入者の動きを阻止するように出来ています。こういった石垣を見るだけでワクワクします。
このような上に伸びていくような石垣は全国的にも珍しいそうで、豊臣秀吉が行った朝鮮出兵の時に築いた倭城に顕著に見られるそうです。日本では洲本城や松山城などごく限られたお城にしかないそうです。
券売所の反対側には表御殿があります。藩主が公的な行事を行った場所と私的な場所と両方があった建物で明治維新後に一度取り壊されましたが、1987年(昭和62年)に復元され、今は彦根城博物館になっています。ひこにゃんがショーを行う場所にもなっています。とにかくひこにゃんがゆるくて可愛かったです。
券売所を抜けて坂道を上ると建物が見えてきます。天秤櫓です。
長浜城の大手門を移築したものと伝わるそうです。左右対称の櫓で天秤のように見えることから天秤櫓と呼ばれています。ここに架かる橋はいざとなったら落として侵入者を防ぐのだそうです。
天秤櫓が乗っている石垣は左右で組み方が違います。右側は築城当初の牛蒡積みと呼ばれる積み方。右側がこれ。
左側がこれ。こちら側は大規模な修理が行われた1854年(嘉永7年)の石垣で、切石の落し積みです。どうでしょう、結構違いますね。
天秤櫓は裏側から見るとコの字になっているのがよくわかります。
この天秤櫓は中に入ることができます。狭間があるのがわかります。
さっき歩いてきた所が見えます。ここからなら敵を狙えますね。
天秤櫓の正面は鐘の丸になっていて、築城当初は鐘楼があったそうですが後に移築されました。今は広場になっていて色々な種類の桜の木が植わっていました。
さあ、天秤櫓をくぐって先へ進みます。
ちらりと天守が見えます。ワクワク。
見えてきたのは太鼓門及び続櫓。本丸の表口を固める櫓門です。築城当時にどこかのお城から移築されてきたらしいです。この門の裏側は高欄付きになっていてとても珍しい構造です。
鐘の丸にあった鐘楼がここに移築されています。この鐘自体は1844年(弘化元年)に鋳造したものですが、今も1日5回ついているそうです。
載せたい写真がたくさんあり過ぎて長くなるので、一旦ここで閉めます。
その2に続きます。
番外編その2 ~八幡山城~ [続100名城スタンプ]
2018年春、滋賀県の旅です。
近江八幡~彦根~安土を訪れました。史跡がたくさんでテンション上がりまくりです。それに桜の咲く季節を狙って行ったのですが、ちょうど満開の時期で最高でした
因みにまだこの頃は続100名城スタンプラリーがなかったのです。なのでまたスタンプ押しに改めて行きたいです。
近江八幡は豊臣秀次が築いた城下町です。大河ドラマ真田丸を見た後だと、なんだかより親しみが沸きます。町は昔の雰囲気を留めていてとても趣があります。
秀次はここに楽市楽座と取り入れ、のちに近江商人と呼ばれるようにここに商業都市の基礎を築いたのです。近江兄弟社がありました。メンターム、愛用してます。
近江八幡と言えば八幡堀が観光名所でもあります。琵琶湖と城下町を繋ぐ商人にとってもとても重要な運河です。どこを撮っても絵になります。
さて、八幡山ロープウェイに乗っていよいよ八幡山城へ。
八幡山城は1585年(天正13年)に築城され、本丸、二の丸、西の丸、北の丸、出丸が造られ、一大要塞だったようです。しかし今は石垣が残っているだけですが、その石垣もしっかり残っていて、お城好きとしてはなんだか感動してしまいます。
本丸跡には今瑞龍寺が建っています。この寺は秀次の生母の日秀尼が秀次の菩提を弔うために1596年(文禄5年)に京都に創建、何度か火災に合いながらも再建、1961年(昭和36年)にこの八幡山本丸跡に移したんだそうです。
拝観させて頂きました。中には豊臣秀次公の銅像がありました。なんだか感慨深い。
本堂の周りをぐるっと散策。西の丸跡です。他にも北の丸跡や出丸跡がありますが、なぜか写真はここしか撮らなかったみたいです。
八幡山からは城下町や琵琶湖がよく見えました。こういう史跡に来るといつも思うのですが、武将たちはこういう景色を眺めていたのかと思うと感動します。
近江八幡~彦根~安土を訪れました。史跡がたくさんでテンション上がりまくりです。それに桜の咲く季節を狙って行ったのですが、ちょうど満開の時期で最高でした
因みにまだこの頃は続100名城スタンプラリーがなかったのです。なのでまたスタンプ押しに改めて行きたいです。
近江八幡は豊臣秀次が築いた城下町です。大河ドラマ真田丸を見た後だと、なんだかより親しみが沸きます。町は昔の雰囲気を留めていてとても趣があります。
秀次はここに楽市楽座と取り入れ、のちに近江商人と呼ばれるようにここに商業都市の基礎を築いたのです。近江兄弟社がありました。メンターム、愛用してます。
近江八幡と言えば八幡堀が観光名所でもあります。琵琶湖と城下町を繋ぐ商人にとってもとても重要な運河です。どこを撮っても絵になります。
さて、八幡山ロープウェイに乗っていよいよ八幡山城へ。
八幡山城は1585年(天正13年)に築城され、本丸、二の丸、西の丸、北の丸、出丸が造られ、一大要塞だったようです。しかし今は石垣が残っているだけですが、その石垣もしっかり残っていて、お城好きとしてはなんだか感動してしまいます。
本丸跡には今瑞龍寺が建っています。この寺は秀次の生母の日秀尼が秀次の菩提を弔うために1596年(文禄5年)に京都に創建、何度か火災に合いながらも再建、1961年(昭和36年)にこの八幡山本丸跡に移したんだそうです。
拝観させて頂きました。中には豊臣秀次公の銅像がありました。なんだか感慨深い。
本堂の周りをぐるっと散策。西の丸跡です。他にも北の丸跡や出丸跡がありますが、なぜか写真はここしか撮らなかったみたいです。
八幡山からは城下町や琵琶湖がよく見えました。こういう史跡に来るといつも思うのですが、武将たちはこういう景色を眺めていたのかと思うと感動します。
第7城 ~No.21 江戸城~ [100名城スタンプ]
久々の更新です。ずっと放置してました。
2018年3月26日、江戸城に行きました。
ちょうど桜の時期。乾門の通り抜けもしてきましたよ。
まず大手町駅からまっすぐ、まず大手門です。
お堀の向こうに大手門と櫓が見えてきました。枝垂桜が咲いています。
大手門渡櫓です。枡形ですね。ここは空襲で焼失した後復元されたものだそうです。
焼失前の門に飾られていた鯱がありました。
中に入ると中之門跡があります。巨大な石垣です。
反対側には百人番所があります。その向こうには東京のビル群が。
中之門は通らず、中雀門跡へ。ここも枡形です。
ここを抜けて左にいくと富士見櫓があります。明暦の大火で焼失したがすぐに再建され、その後は天守の代わりとして使われたそうです。その名の通りここで将軍が富士山を眺めたりしていたんだそうです。
本丸跡です。芝生の広場になっています。かつてここには陸軍の午砲台があって、報時のための午砲(空砲)を撃っていたんだそうです。
いよいよ天守台跡です。巨大です。かつてここには58mもの天守が建っていて、それは房総半島からも見えたんだそうです。すごい。しかしここもやはり明暦の大火で焼失し、再建を目指したそうですが、平和な時代にもはや不要だということで、再建されることなく今に至っています。
天守台からの眺めです。大奥跡です。ここも芝生の広場になっています。
天守台の裏にあるのが北桔橋門。ここを出ると地下鉄竹橋駅方面ですが、まだ出ません。
梅林坂を下ると美しい石垣がありました。
汐見坂付近のお堀。白鳥濠というところです。この付近まで昔は入江があり、この坂から海を眺めることができたのだそうです。
白鳥濠を上から見たところです。
二の丸庭園です。かつて小堀遠州が造ったお庭があったそうですが、度重なる火災で焼失し、いまある庭園は昭和になってから造られたものだそうです。
一度外に出て来ました。ここは桔梗堀に建っている桜田巽櫓です。これも現存している江戸時代の櫓です。
坂下門です。乾門の通り抜けをします。
富士見櫓をお堀側から。
蓮池堀側に建っている富士見多聞です。長屋造りの防衛施設で、この中に入ることが出来ます。ここもはやり明暦の大火で焼失した後再建されたようです。高い石垣の上に建っていることがわかります。
桜も綺麗です。
このまままっすぐ行くと乾門なのですが、右へ曲がってまた東御苑に戻って来ました。ここは乾濠です。幅の広さがよくわかります。
江戸城と言ったらもっともっと広く、とても見切れませんでした。今回はここまで。
2018年3月26日、江戸城に行きました。
ちょうど桜の時期。乾門の通り抜けもしてきましたよ。
まず大手町駅からまっすぐ、まず大手門です。
お堀の向こうに大手門と櫓が見えてきました。枝垂桜が咲いています。
大手門渡櫓です。枡形ですね。ここは空襲で焼失した後復元されたものだそうです。
焼失前の門に飾られていた鯱がありました。
中に入ると中之門跡があります。巨大な石垣です。
反対側には百人番所があります。その向こうには東京のビル群が。
中之門は通らず、中雀門跡へ。ここも枡形です。
ここを抜けて左にいくと富士見櫓があります。明暦の大火で焼失したがすぐに再建され、その後は天守の代わりとして使われたそうです。その名の通りここで将軍が富士山を眺めたりしていたんだそうです。
本丸跡です。芝生の広場になっています。かつてここには陸軍の午砲台があって、報時のための午砲(空砲)を撃っていたんだそうです。
いよいよ天守台跡です。巨大です。かつてここには58mもの天守が建っていて、それは房総半島からも見えたんだそうです。すごい。しかしここもやはり明暦の大火で焼失し、再建を目指したそうですが、平和な時代にもはや不要だということで、再建されることなく今に至っています。
天守台からの眺めです。大奥跡です。ここも芝生の広場になっています。
天守台の裏にあるのが北桔橋門。ここを出ると地下鉄竹橋駅方面ですが、まだ出ません。
梅林坂を下ると美しい石垣がありました。
汐見坂付近のお堀。白鳥濠というところです。この付近まで昔は入江があり、この坂から海を眺めることができたのだそうです。
白鳥濠を上から見たところです。
二の丸庭園です。かつて小堀遠州が造ったお庭があったそうですが、度重なる火災で焼失し、いまある庭園は昭和になってから造られたものだそうです。
一度外に出て来ました。ここは桔梗堀に建っている桜田巽櫓です。これも現存している江戸時代の櫓です。
坂下門です。乾門の通り抜けをします。
富士見櫓をお堀側から。
蓮池堀側に建っている富士見多聞です。長屋造りの防衛施設で、この中に入ることが出来ます。ここもはやり明暦の大火で焼失した後再建されたようです。高い石垣の上に建っていることがわかります。
桜も綺麗です。
このまままっすぐ行くと乾門なのですが、右へ曲がってまた東御苑に戻って来ました。ここは乾濠です。幅の広さがよくわかります。
江戸城と言ったらもっともっと広く、とても見切れませんでした。今回はここまで。